和尚のひとりごとNお118「一向上人」
一向上人は、歴仁2年(りゃくにん)(1239年)筑後国西好田(現在の福岡県久留米市)の国司(現在の知事と裁判官と警察署長を合わせた役職)草野家の一族(草野家当主 草野太夫永平の弟冠四郎永泰の子)に生まれます。
草野家は、浄土宗第二祖聖光房弁長上人(しょうこうぼうべんちょうしょうにん)を支援し、大本山善導寺を建立した大変有力なお檀家さんでした。
上人7歳の時、播磨国(姫路市)の西の比叡山と称される「書写山圓教寺」に入り、天台教学を学ばれ、15歳の時に剃髪出家され「俊聖」と名乗りました。
圓教寺で9年間修行され、その後、南都に遊学(奈良のお寺を学び周る)されます。
正元元年(しょうげんがんねん)(1259年)上人21歳の時、鎌倉光明寺の浄土宗第三祖記主禅師良忠上人(きしゅぜんじりょうちゅうしょうにん)の弟子になり、浄土教学を学んで、「一向」と名乗り、35歳の時に諸国に遊行(お念仏の教えを広めに行く事)に行かれます。
前回の和尚のひとりごとNo117で一向上人を法然上人の曾孫弟子と紹介しましたのは、法然上人― 聖光房弁長上人― 記主禅師良忠上人― 一向上人と知恩院の浄土宗の教えを受け継いでいるからです。
文永11年(1274年)大隅八幡宮に詣でた時に、神託を受け踊り念仏を始めました。
それ以来、九州 四国 北陸方面まで回国行脚し、弘安6年(1283年)に近江国(滋賀県)に入り、地元の有力者であった土肥三郎元頼の支援を受けて、蓮華寺を開きます。
弘安10年(1287年)、49歳の時、蓮華寺にて、病を得て床に臥しますが、臨終の際、立ち上がり、数百遍念仏を称えて笑みをふくみながら立ち姿のまま往生されたと伝わっています。
そのお姿は、「立ち往生」といわれ、現在に至るまで、尊崇されています。