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法然上人御法語第八

第8 万機普益gohougo

~数ある御教えの中でも~

 

【原文】

浄土一宗の諸宗に超(こ)え、念仏一行の諸行に勝れたりという事は、万機(ばんき)を摂(せっ)する方(かた)をいうなり。

理観(りかん)・菩提心(ぼだいしん)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・真言(しんごん)・止観(しかん)等、いずれも仏法のおろかにましますにはあらず。みな生死滅度(しょうじめつど)の法なれども、末代になりぬれば、力及ばず。行者の不法なるによりて、機が及ばぬなり。

時をいえば、末法万年(まっぽうまんねん)の後、人寿十歳(にんじゅじっさい)につづまり、罪をいえば、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人なり。老少男女(ろうしょうなんにょ)の輩(ともがら)、一念十念の類(たぐい)に至るまで、みなこれ摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓いに籠(こも)れるなり。

この故に諸宗に超え、諸行に勝れたりとは申すなり。

(『勅伝 第四十五巻』)

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【ことばの説明】

万機(ばんき)を摂(せっ)する

「万機」はあらゆる機根を持つ衆生、機根は衆生の素質や能力を意味するから、素質や能力を問わずあらゆる衆生を対象として、

「摂す」は救い取ることを意味するので、「万機を摂する」とは「あらゆる衆生を救い取る」ということ。

 

理観(りかん)・菩提心(ぼだいしん)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・真言(しんごん)・止観(しかん)等

ここで様々な仏教の修行方法が列挙されている。

理観(りかん)とは「理の念仏」とも呼び、「三身即一(さんじんそくいつ)の仏」と呼ばれる普遍的な真理としてのブッダを洞察しようとする観想の方法。極めて高度な能力や資質が求められる難行であるとされていた。

菩提心(ぼだいしん)は、詳しくは「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)」のこと。また「発菩提心(ほつぼだいしん)」とも言い、悟りを求め、仏とならんとする決意を意味する。大乗仏教の修行道の出発点。

読誦大乗(どくじゅだいじょう)は、大乗の経典を手に取って読み、さらにそれを暗唱すること。

真言(しんごん)の本来の意味は「真実の言葉」、原語でmantra(マントラ)と言う。ここではこの真言を教義実践の中心に置く密教の修行を意味する。

止観(しかん)は、止(śamatha シャマタ)と観(vipaśyanā ヴィパッシャナー)とに分かれる。止は「心を静め、一つの対象に集中させること」、観は止によって安らかとなった心を土台として「正しい智恵を働かせて、世界をあるがままに観察すること」。仏教における瞑想法を説明したもの。中国の天台大師智顗が著わした『摩訶止観(まかしかん)』において組織的に説かれた。ここではその天台における止観の行法を指している。

 

生死滅度(しょうじめつど)の法

生死の苦しみを伴う迷いの境涯を滅ぼし、悟りの境涯に渡るための教え。上に挙げられた種々の仏道修行のこと。

 

十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)

「十悪」とは、仏教で数える十種の悪い行いのこと。身口意(しんくい)の三業、つまり身体による動作と、口で発する言葉と、心の中で思うこと、これらで行う悪しき行為であるとされ、苦しみ多き境涯に赴く原因となる。

殺生(せっしょう 生き物の命を断つこと)、偸盗(ちゅうとう 盗むこと)、邪婬(じゃいん 道に外れた性交渉)、以上が身体で犯す身業(しんごう)。

妄語(もうご 嘘やたぶらかしの言葉)、両舌(りょうぜつ 争いや仲違いを誘因する言葉)、悪口(あっく 暴言や罵りの言葉)、綺語(きご 誠実さのない言葉)、以上が口でなす口業(くごう)。

貪欲(とんよく 貪り)、瞋恚(しんに 怒り・憎悪)、邪見(じゃけん 誤った見解つまり因果の道理の否定)、以上が心に思うことでなす意業(いごう)。

以上の合計で十種を数える。

 

「五逆」とは、十悪よりもさらに罪が重いとされる五つの大罪。

『阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)』によれば、

殺母(せつも 母を殺すこと)、殺父(せっぷ 父を殺すこと)、殺阿羅漢(せつあらかん 迷いを脱した聖者、仏弟子を殺すこと)、出仏身血(しゅつぶっしんけつ 悪意をもって仏の身体を傷つけること)、破和合僧(はわごうそう 修行僧の和を乱し分裂させようとすること)、以上が五逆となる。

これらを一つでも犯すと死後ただちに無間地獄(むけんじごく)に堕ちるとされる。無間地獄とは別名「阿鼻地獄(あびじごく)」とも呼び、最も苦しみの大きい地獄であるとされる。

 

【現代語訳】

浄土の一宗(浄土の教え)が他の諸宗(浄土以外の教え)より勝れ、念仏という一行が他の様々な修行法よりも勝れているという事は、全ての衆生を漏れなく救い取るという点を言っているのです。

(もちろん)真理を見ようとする観法、覚りを求めんとする決意、大乗経典の読誦、真言の教え、止観の行など、(従来から大切とされてきている)どんな修行も仏の教えとして不十分であるという訳ではありません。(これらは)皆、生死の苦しみを滅して覚りを得ようとする教えではありますが、末法の時代になり、(仏道を行ずる者の)力が及ばず、修行者が教えに背いてしまうことによって、素質や能力が追い付いていかないのです。

時代について言うならば、末法の時代に入って一万年が経った後、人の寿命もついに十歳にまで縮まってしまい、罪ということについて言うならば、十悪五逆と呼ばれる大罪を犯してしまう罪人でもあります。(そのような)老若男女の人々であり、(念仏を)一回ないし十回しか称えないような人々に至るまで、皆(仏の)「救い取って捨てることのない誓い」の対象に含まれているのです。

だからこそ(浄土の教えは)他の教えより勝れ、(念仏が)他の修行法よりも勝れていると申し上げるのであります。

 

数ある仏教の教え(法門)の中でも、浄土に関する教えは最も勝れ、その中でも仏によって選ばれ誓われた念仏(選択本願念仏)がより勝れている。これが法然上人の見出された確信であります。

ここでは、浄土一宗(浄土に往生する教え)が、他の教えよりも勝れている所以をひとことで言い表しています。

つまり「全ての衆生を漏れなく救い取る」という一点において勝れていると。

”仏の光明は遍(あまね)く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず”

自分自身の力では仏の境地に至ることが叶わず、また時として悪をなしてしまうのが末法に生きる私たちの姿でもあります。

そんな私たちに差し伸べられた一筋の光明、法然上人にとり弥陀の本願に裏打ちされた浄土往生の教えは、まさにそのようなものだったのではないでしょうか?

合掌

和尚のひとりごとNo166「同称十念・同称御回願(どうしょうごえがん)」

 

”南無阿弥陀佛” お念仏は私たち日本人には大変馴染み深いものですね。

その意味するところは、阿弥陀さまという仏の名を呼び、その仏を信頼し全面的に帰依することです。

そこには、どうか私を救ってください、浄土に迎え入れて下さいという心からの願いが込められています。

ところで私たち浄土宗では、僧俗〈そうぞく〉(僧侶と出家していない人、一般の人)が一体となってこのお念仏を10回唱えることがあります。

これをともに称える念仏、つまり同称十念(どうしょうじゅうねん)と呼びます。

では何故、10回なのでしょうか?

そこには根拠があります

浄土の教えが説き示された経典は数多くありますが、浄土宗を開かれた法然上人がとりわけ大切にされたのは浄土三部経です。その中の無量寿経の中に次のような一節があります。

”設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚”(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう ししんしんぎょう よくしょうがこく ないしじゅうねん にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく)

後に覚りを開き阿弥陀佛となる法蔵菩薩が修行時代に建てた誓いの一つです。

「あらゆる世界の衆生が心から信じてわたくしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏を試みて、それでももし生まれることが出来ないようであれば、決して仏とはならない」

そして法蔵菩薩はその誓いを成就して、阿弥陀佛となりました。

仏法には様々な道があります。

その中でも、心から極楽浄土への往生を願いわずか10回でもお念仏を称えるならば、必ず往生を果たすことができる、それが浄土の教えであります

同称十念とは、その10回のお念仏を皆さんとともに称え、仏さまへの感謝の気持ちを表すことです。

お勤めの際に僧侶が”同称十念”と呼びかけましたら、皆さんも是非お手を合わせ、大きな声でご一緒にお念仏を称えましょう。

和尚のひとりごとNo165「ここにいるよ あなたを想っている」

 

 人生の壁にぶつかった時、ふと立ち止まり自分自身を見つめ直したくなる時があります。「何故この世に生まれてきたのか?」「この人生に意味はあるのか?」「どうして私ばかりがこんな苦しみを受けなければならないのか?」

 自らの意思で、明確な目的意識を持ってこの世に生まれてきた事を知っているのであるならば、壁にぶつかったとしても生きる事に意味を見出すのは簡単でしょう。しかし私たち人間は、気がついた時には既にこの世に人として生まれており、それぞれの与えられた環境の下で生活が始まっています。ですから時としてこの人生に意味を求め、「私は何の為に生きているのか?」と自問自答したくなるのでしょう。人間は、意味や理屈を求める生き物でありながら、生きる事にどんな意味があるのか分からないまま人生が始まっているところに根源的な悩みが生まれるのです。19hatigatu

 

 またこの世の中は非常に不条理なものです。善人が必ず報われ、悪人が必ず罰せられて衰えていくのならば納得もいくのでしょうが、善人が必ず栄え報われるとは限りません。東日本大震災の様な天災や、多発する交通事故、ニュースで見聞きする事件等で犠牲になった方々は悪人だったのでしょうか?地震などの天災は、遺族にとって怒りの矛先が無い非情な出来事であり、不条理極まりないものです。科学的に地震の発生原因を解明し、どうして死に至ったのかを説明したところで遺された人々の苦しみを癒す事は出来ません。

 

 東日本大震災では発生当初多くの僧侶も駆けつけ、様々な宗派の葬送儀礼が各地で勤められました。浄土宗は、「死後、御浄土で再会出来る」という御教えです。南無阿弥陀佛とお念仏を御称えしたならば、命尽きた後、西方極楽浄土に往き、そこで亡き人と再び会う事が出来るという、科学的根拠の全く無い御教えです。しかし、死別という悲しみにおいては「何故死に至ったのか?」「どうしてこの様な事が起きたのか?」という科学的な原因究明よりも、死後の世界は有り、今生で死に別れても再会出来る場所が有るという非科学的な教えが遺族の方々に大きな安らぎを与えました。

 

 非情な悲しみに遭い、「何故生きているのか?」と人生の意味を問うた時、科学的視点では安らぎを得られません。科学的に人生を解明しても人類は単なる進化の過程に過ぎないからです。私たちは望むと望まざるにかかわらず、気付いた時には既に人生がスタートしており、平等でない環境の下、不条理な世の中を生き抜いていかねばなりません。生きる事の意味を問うた時、目には見えない信仰の世界が一番の救いになり、現実を生きる我々に生きる力を与えてくれるものであります。先立たれた方は間違いなくお浄土に居て、「ここにいるよ。あなたを想っている。」と亡き人が私達を見守ってくださっていると思いを馳せ、共々にお念仏を申して過ごして参りましょう。