御法語

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和尚のひとりごとNo889「法然上人御法語後編第三十一」

還来度生(げんらいどしょう)

【原文】
さように、空事(そらごと)を巧(たく)みて申(もう)し候(そうろ)うらん人(ひと)をば、かえりて憐(あわ)れむべきなり。さほどの者の申(もう)さんによりて念仏に疑(うたが)いをなし、不信(ふしん)を起(お)こさんものは、言(い)うに足(た)らぬほどの事(こと)にてこそは候(そうら)わめ。
大方(おおかた)、弥陀(みだ)に縁(えん)浅く、往生(おうじょう)に時(とき)至(いた)らぬ者は、聞けども信(しん)ぜず、行(おこな)うを見ては腹を立て、怒(いかり)を含みて妨(さまた)げんとする事にて候(そうろ)うなり。その心(こころ)を得て、いかに人申すとも、御心(おんこころ)ばかりは動(ゆる)がせ給(たま)うべからず。強(あなが)ちに信(しん)ぜざらんは、仏(ほとけ)、なお力及び給(たま)うまじ。いかに況(いわん)や凡夫(ぼんぶ)の力、及び候(そうろ)うまじき事なり。
かかる不信(ふしん)の衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せんと思(おも)わんにつけても、疾(と)く極楽(ごくらく)へ参りて、覚(さと)りを開きて、生死(しょうじ)に還(かえ)りて、誹謗不信(ひほうふしん)の者をも渡して、一切衆生(いっさいしゅじょう)、あまねく利益(りやく)せんと思(おも)うべき事にて候(そうろ)うなり。

勅伝第28巻

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【ことばの説明】
還来度生(げんらいどしょう)
還来は、この世へ還かえり来ること。阿弥陀仏の浄土へ往生を果たしたのち、再びこの世に還ること。
度生は、衆生を彼岸へと渡すこと。衆生に覚りの利益をもたらすこと。


【訳文】
そのようにたくらみを持って絵空事を言う人については、かえって憐れみを持つべきです。そのような程度の者の言葉で、念仏を疑い、不信を念を起すことは、あえて口にする必要もないほど愚かしいことでありましょう。
たいていの場合、阿弥陀仏との縁がいまだ浅く、往生を期するに時が熟していない者は、聞いても信ぜず、往生に向けた行いを見ては腹を立て、怒りをもってそれを妨害しようとするものです。このことわりを弁えて、どのような人が申すのを聞いても、そのお心だけは動かされてはなりません。信ずる事を頑なに拒む人には、仏の力も及びません。ましてや私たち凡夫の力をもって、いかんともし難いものなのです。
このような信ぜざる人々に利益をもたらそうと思うにしても、まずは極楽へと往生を遂げ、かの地で覚りを開き、再び生死輪廻の世界へと戻り、教えを謗り信じない人々をも彼岸の岸辺へと渡し、全ての衆生にもれなく利益をもたらそうと考えるべきなのです。


無智の者どもに対しては、その無智ゆえに念仏のみを勧めたという噂に対して、法然上人がお答えになったことばです。人々の言葉に惑わされず、他ならぬ仏の本願を信じ順ずることこそが往生への道であり、大切な信心を失ってはならないことがさとされています。
合掌

 

和尚のひとりごとNo886「法然上人御法語後編第三十」

廻向(えこう)

【原文】
当時(とうじ)日(ひ)ごとの御念仏(おねんぶつ)をも、かつがつ廻向(えこう)しまいらせられ候(そうろ)うべし。亡き人のために念仏を廻向し候(そうら)えば、阿弥陀仏、光を放ちて地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)を照らし給(たま)い候(そうら)えば、この三悪道(さんなくどう)に沈みて苦(く)を受(う)くる者、その苦しみ休(やす)まりて、命(いのち)終(おわ)りて後(のち)、解脱(げだつ)すべきにて候(そうろう)。
大経(だいきょう)に、「若(も)し三途(さんず)勤苦(ごんく)の処(ところ)に在(あ)りて此(こ)の光明(こうみょう)を見(み)たてまつらば、皆(みな)休息(くそく)を得(え)て復(また)苦悩(くのう)なし。寿終(じゅじゅう)の後(のち)、皆解脱を蒙(こうぶ)らん」と云(い)えり。

勅伝第23巻

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【ことばの説明】
廻向(えこう)
pariṇāma(パリナーマ)より、「行き先を転じる」「変化する」の意。
自ら修めた行いの功徳(報い)を、他に差し向ける行為。

地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)
ともに避けるべき三つの苦しみの境涯で、「三悪道(さんなくどう)」または「三途(さんず)」に同じ。地獄道においては火炎に身を焼かれ、餓鬼道においては果てしなき飢えの苦しみに加えて刀杖によって迫害され、畜生道においては愚かにもお互いが食い争っている中に身を投じなければならない、とされる。


【訳文】
常日頃のお念仏においては、何はともあれ廻向をされるべきであります。亡き人のために念仏を廻向することで、阿弥陀仏はその身が放つ御光によって、地獄・餓鬼・畜生の境涯を照らし給い、この三つの悪道に堕ちた者たちの苦しみをやわらげ、その者たちがやがて生命終わるときに、苦しみから逃れることができるのです。
『大無量寿経』にはこのようにあります。
「もし三悪道の苦しみある処にあって、この仏の光明を見ることができたなら、皆安らぎを得て、再び苦しむことはない。寿命果てるのち、皆解脱を果たすであろう」と。

自らの行いの報いは自らが受けなければならない、しかしながら善き行いに関しては、その功徳を廻向することができる、仏教ではこのように考えます。そして数ある行為の中でも、この上ない功徳をもたらすとされるお念仏を廻向すれば、三悪道で苦しむ者たちさえも救うことができる、自他ともに利するお念仏を廻向することの大切さを示された法然上人のお言葉であります。
合掌

 

和尚のひとりごとNo861「法然上人御法語後編第二十九」

一蓮托生(いちれんたくしょう

【原文】
会者定離(えしゃじょうり)は常(つね)の習(なら)い、今始めたるにあらず。何(なん)ぞ深く歎(なげ)かんや。宿縁(しゅくえん)空(むな)しからずば同一蓮(どういちれん)に坐(ざ)せん。浄土の再会、甚(はなは)だ近(ちか)きにあり。今の別(わか)れは暫(しばら)くの悲しみ、春の夜の夢のごとし。信謗(しんぼう)ともに縁として、先に生まれて後(のち)を導(みちび)かん。引摂縁(いんじょうえん)はこれ浄土の楽しみなり。
夫(そ)れ現生(げんしょう)すら猶(なお)もて疎(うと)からず。同(どう)名号(みょうごう)を称(とな)え、同一(どういつ)光明(こうみょう)の中(うち)にありて、同聖衆(しょうじゅ)の護念(ごねん)を蒙(こうぶ)る、同法(どうほう)、尤(もっと)も親し。愚かに疎(うと)しと思(おぼ)し食(め)すべからず。
南無阿弥陀佛と称え給(たま)えば、住所は隔(へだ)つといえども、源空(げんくう)に親しとす。源空も南無阿弥陀佛と称えたてまつるが故なり。念仏を縡(こと)とせざる人は、肩を並べ、膝を与(く)むといえども源空に疎(うと)かるべし。三業(さんごう)、みな異なるが故なり。

十六門記より

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【ことばの説明】
一蓮托生(いちれんたくしょう)
念仏往生を願う者が、共に同じ極楽の蓮の台(うてな)にその身を任すこと。
「諸(もろもろ)の上善人と俱に一処(いっしょ)に会することを得ればなり」(『仏説阿弥陀経』)

会者定離(えしゃじょうり)
『仏遺教経(ぶつゆいぎょうきょう)』より。つぶさには「生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつえしゃじょうり)」といい、生命ある者が死ぬことは必然であり、従って出会った者も必ず別れることを意味する。

信謗(しんぼう)
仏の教えを信じること、また反対に信じずに謗(そし)ること。

引摂縁(いんじょうえん)
引摂(いんじょう)は仏・菩薩が極楽へと導くこと。引摂縁(いんじょうえん)とは往生を遂げた者が、かつてこの娑婆世界で縁を結んだ人を同じ極楽へと救いとること。


【訳文】
出会った者にも必ず別れの時が来るというのはこの世の理(ことわり)であり、今に始まったことではありません。どうして今更のように深く嘆き悲しむことがありましょうか。かつての自らの行いによる因縁が確かなものであるならば、その報いとして浄土の同じ蓮の上に坐すことができるでしょう。その浄土における再会は、実に間もなくの事です。今ここでの別れというのは、ほんのしばらくの間の悲しみであり、まるで春の夜の夢のようなはかないものに過ぎません。
み教えを信ずる者、信ぜざる者もありますが、これらを共々にご縁として、先に往生できる者が後に続く者たちを導こうではありませんか。ご縁ある人を浄土に迎え取るは、実にこれ浄土での楽しみというものです。
私たちはこの世界における関係でさえ浅からぬものです。ましてや同じ仏の名号を称え、同じ仏の御光のうちに包まれ、同じ極楽の仏・菩薩や聖者たちによる守護をこうむり、同じみ教えを奉ずる者同士は他に比べようもないほど近しい間柄なのです。それを浅はかにも縁遠いなどとゆめゆめお考えになってはなりません。
そうです、”南無阿弥陀佛”と称えれば、居場所は離れようとも、私源空とは近しい間柄なのです。それは私も”南無阿弥陀佛”と称えるからです。反して念仏をこととしない人は、たとえ肩をならべ、膝を交えていようとも、私とは縁遠い間柄なのです。それは身口意の行いすべてがかけ離れてしまっているからです。

建永二年(1207年)、遠く四国への流罪が決まった法然上人が、別れを惜しむ九条兼実に語った言葉として伝えられています。時を隔て、場所を離れても、必ず親しき間柄となれる。何故なら極楽への往生を期せんとの同じ志をもち、同じ仏の御名を称えているのですから。
合掌

和尚のひとりごとNo836「法然上人御法語後編第二十八」

順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)

【原文】
このたび輪廻(りんね)の絆(きずな)を離(はな)るる事(こと)、念仏に過(す)ぎたる事(こと)はあるべからず。この書(か)き置(お)きたるものを見て誹(そし)り謗(ほう)ぜん輩(ともがら)も、必(かなら)ず九品(くほん)の台(うてな)に縁(えん)を結び、互いに順逆(じゅんぎゃく)の縁(えん)虚(むな)しからずして、一仏(いちぶつ)浄土(じょうど)の友(とも)たらん。
抑(そもそも)機(き)をいえば五逆(ごぎゃく)重罪(じゅうざい)を簡(えら)ばず、女人(にょにん)・闡提(せんだい)をも捨てず。行(ぎょう)をいえば一念(いちねん)十念(じゅうねん)をもてす。これによりて五障(ごしょう)三従(さんじゅう)を恨(うら)むべからず。この願(がん)を頼(たの)み、この行(ぎょう)を励(はげ)むべきなり。
念仏の力(ちから)にあらずば、善人(ぜんにん)なお生まれ難(がた)し、況(いわん)や悪人(あくにん)をや。五念(ごねん)に五障(ごしょう)を消(け)し、三念(さんねん)に三従(さんじゅう)を滅(めっ)して、一念(いちねん)に臨終(りんじゅう)の来迎(らいこう)をこうぶらんと、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に名号(みょうごう)を称(とな)うべし。時処(じしょ)諸縁(しょえん)に、この願(がん)を頼むべし。あなかしこ、あなかしこ。

念佛往生要義抄より

koudai28


【ことばの説明】
順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)
仏法に対する順縁(じゅんえん)と逆縁(ぎゃくえん)とが共に仏縁となること。順縁においては友好的に仏教との縁が結ばれ、逆縁においては仏教を信ぜず教えを誹謗しようとも、逆にそれが仏縁となっていく様を表している。この場合は浄土の教えに対するそれぞれの関係が結局は往生への機縁となることをいっている。

九品(くほん)の台(うてな)
九品蓮台(くほんれんだい)とも。極楽浄土に往生する際に、その者の能力に応じて化生する蓮の台が異なっている。それに九段階(九品)数えられることをいう。

五逆(ごぎゃく)重罪(じゅうざい)
五つ数えられる重罪のこと。一つに母を殺す、二つに父を殺す、三つに悟りに達した阿羅漢を殺す、四つに悪意をもって悟りを開いた仏を傷つける、五つに修行僧たちの和合を乱すこと。これらを犯せば死後ただちに無間地獄へと堕ちると説かれた。

闡提(せんだい)
梵語(イッチャンティカ icchantika)の音訳で詳しくは一闡提(いっせんだい)。強欲のあまり悟りを開く一切の要因
を持たない者を指す。

五障(ごしょう)三従(さんじゅう)
「五障」とは五つの障害のことで、女性が神々の長である梵天をはじめ、帝釈天、魔王、転輪聖王(てんりんじょうおう、全世界を統べる王)そして仏とはなれないことをいう。
「三従」とは、女性が結婚するまでは父に従い、婚姻後は夫に従い、その死後には息子に従うべきことをいう。


【訳文】
この身を最後に生死輪廻の束縛から離れる事に関して言えば、念仏より勝れた方法はありません。ここに私が書きおいたものを見て、謗り攻撃するような者であっても、必ず浄土の九品の蓮の台との縁を結び、己が信ずるとこと相異なる信心の者たちもそれぞれに仏縁が実り、同じ仏の浄土にて友となるのです。
そもそも浄土に救われる人の能力を申し上げるならば、五逆の重罪を犯した人も分け隔てなく、女性や一闡提の人たちをも捨て去ることはありません。救われる人が行うべき修行としては、ひとたびの念仏ないし十回の念仏によるとされるのです。この事に拠って五障や三従の境遇を恨むべきでもありません。この仏の本願に頼り、この念仏の行を懸命に行うべきです。
念仏の力に拠らなければ、善人でさえ往生は難しいのです。ましてや悪人については申すまでもありません。この五遍の念仏によって五障を消し、三遍の念仏で三従を滅して、一遍の念仏によって臨終時の仏の来迎を蒙るのだと、普段の生活の隅々にわたり仏の名号を称えて下さい。時と場所を選ばず、様々な機縁をつかまえて、この本願を頼りとするのです。
あなかしこ、あなかしこ。

法然上人にはこのようなお言葉も残されています。
「仏は臨終の際には聖衆とともに必ず来迎し、悪業としてそれを妨げるものはなく、魔縁として妨げるものはない。男女の性別を問わず、また善人と悪人の隔てなく、至心に阿弥陀仏を念ずればその浄土に生まれないことはない」
弥陀の本願は世の習いを超えて必ず救って下さる。この事がはっきりと示されています。
合掌

 

和尚のひとりごとNo821「法然上人御法語後編第二十七」

仏神擁護(ぶっしんおうご)

【原文】
宿業(しゅくごう)限りありて受(う)くべからん病(やまい)は、いかなる諸(もろもろ)の仏(ほとけ)・神(かみ)に祈るとも、それによるまじき 事(こと)なり。祈るによりて病も止(や)み、命(いのち)も延(の)ぶる事あらば、誰(たれ)かは一人(いちにん)として病(や)み、死(し)ぬる人あらん。
況(いわん)やまた、仏(ほとけ)の御力(おんちから)は、念仏(ねんぶつ)を信(しん)ずる者(もの)をば、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と云(い)いて、宿業限ありて重く受くべき病を軽(かろ)く受けさせ給(たま)う。況や非業(ひごう)を払(はら)い給 (たま)わんこと、ましまさざらんや。
されば念仏を信ずる人は、たといいかなる病を受(う)くれども、「皆(みな)これ宿業なり。これよりも重(おも)くこそ受(う)くべきに、仏の御力(おんちから)にて、これほども受(う)くるなり」とこそは申(もう)すことなれ。
我等(われら)が悪業(あくごう)深重(じんじゅう)なるを滅(めっ)して極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)するほどの大事(だいじ)をすら遂(と)げさせ給(たま)う。まして此(こ)の世(よ)に、幾程(いくほど)ならぬ命(いのち)を延(の)べ、病を助(たす)くる力、ましまさざらんやと申(もう)す事なり。されば、「後生(ごしょう)を祈り、本願(ほんがん)を頼(たの)む心も薄(うす)きひとは、かくのごとく、囲繞(いにょう)にも護念(ごねん)にもあずかる事なし」とこそ善導(ぜんどう)は宣(のたま)いたれ。同じく念仏すとも、深く信(しん)を起して穢土(えど)を厭(いと)い、極楽を 欣(ねが)うべき事なり。

浄土宗略抄

koudai27


【ことばの説明】
転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)
「重きを転じて軽く受く」と読み、仏によって本来受けるべき重い罪の果報が転換され、軽く受けさせるように仕向けて下さること。

宿業(しゅくごう)
現世において受けるべき報いの原因となった前世における行い(主に悪業)のこと。

非業(ひごう)
前世の行いが原因として特定できない報いのこと。

穢土(えど)
穢れに満ちた清らかならざるこの世界のこと。


【訳文】
前世の悪業の報いとして定まり、当然受けるべき病について、いかに神や仏に祈ったところで、その祈りが効果をあらわすことはないでしょう。もし祈ることで病が癒え、寿命が延びることがあるならば、誰一人として病に犯され、死んでいく人はいなくなるでありましょう。
もちろん、また仏のお力は、念仏を信じる者については「重きを転じて軽く受く」といって、本来前世に作した悪業の報いとして定まっているはずの病を、軽く受けさせるようにしてくださいます。ましてや前世の悪業によらないいわれなき災いに関しては、なおさら防ぎ払ってくださらないことなどありましょうか。
したがって念仏を信じる者は、たとえその身でいかなる病を受けることになろうとも、「皆これは私の身がかつて行った行為の報いなのである。これよりももっと重く重く受けるはずだったが、仏さまのお力によってこの程度で済んでいるのだ」と考えるべきなのです。
私たちのかつての行いがまことに深く重く罪深いものであっても、それを消滅させて、極楽世界に往生させてくれるほどの大きな事を成し遂げて下さる、それが仏さまであります。ましてやこの世で、幾ほどかの寿命を延ばして、病を癒えさせることくらいの力が無いはずはないというものです。ですから「来世の安楽を願い、本願にたよる気持ちの薄い人は、このように、仏菩薩が我が身を包んで下さることもなく、その守護をこうむることもないのである」このように善導大師は仰られたのです。同じように念仏をするのでも、心より信心を起こし、汚れたこの世界を厭い、極楽世界を願うべきなのです。


仏の本願の御力を信ずる気持ち、それが強まれば強まるほど、我が身に降りかかる災いに対しての捉え方も変わってくるかも知れません。この御法語に示される元祖のお言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

 

和尚のひとりごとNo805「法然上人御法語後編第二十六」

仏神擁護(ぶっしんおうご)

【原文】
弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を深(ふか)く信じて、念仏して往生(おうじょう)を願う人をば、弥陀仏(みだぶつ)より始め奉(たてまつ)りて、十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)・菩薩(ぼさつ)、観音(かんのん)・勢至(せいし)、無数(むしゅ)の菩薩、この人を囲繞(いにょう)して、行住座臥(ぎょうじゅうざが)、夜昼(よるひる)をも嫌わず、影(かげ)の如(ごと)くに添(そ)いて、諸々(もろもろ)の横悩(おうのう)をなす悪鬼(あっき)悪神(あくじん)の便(たよ)りを払(はら)い除き給(たま)いて、現世(げんぜ)には横(よこ)さまなる煩(わずらい)なく安穏(あんのん)にして、命終(みょうじゅう)の時(とき)は極楽世界(ごくらくせかい)へ迎(むか)え給(たま)うなり。
されば、念仏を信じて往生(おうじょう)を願う人は、ことさらに悪魔(あくま)を払(はら)わんために、万(よろず)の仏(ほとけ)・神(かみ)に祈りをもし、慎しみをもする事(こと)は、なじかはあるべき。況(いわん)や、「仏(ほとけ)に帰(き)し、法(ほう)に帰し、僧(そう)に帰する人には、一切の神王(しんのう)、恒沙(ごうじゃ)の鬼神(きじん)を眷属(けんぞく)として、常(つね)にこの人を護(まも)り給(たま)う」と云(い)えり。
然(しか)れば、かくの如(ごと)きの諸仏・諸神(しょしん)、囲繞(いにょう)して護り給(たま)わん上(うえ)は、またいずれの仏(ほとけ)・神(かみ)かありて、悩まし妨(さまた)ぐる事(こと)あらん。

浄土宗略抄

koudai26


【ことばの説明】
仏神擁護(ぶっしんおうご)
仏や神々による守護。

観音(かんのん)・勢至(せいし)
観音の原語アヴァローキテーシュヴァラは主に二通りに解釈される。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と訳される場合は衆生の声を聴く菩薩の意味。観自在菩薩(かんじざいぼさつ)と訳される場合は、観察することに自在なる菩薩の意味。阿弥陀仏の眷属(仕える者)としては、とりわけ慈悲に優れた菩薩。
勢至(マハースターマプラープタ)は絶大な力を獲得した菩薩、またその力を得せしめる菩薩の意。その智慧はあまねく一切に及ぶと言われ、阿弥陀仏の眷属としては優れた智慧を象徴する。

悪魔(あくま)
悪魔は本来、仏教に由来する言葉で、仏道を妨げる存在を指す。釈迦の成道を妨げんとしたマーラ(魔羅)に同じ。

鬼神(きじん)
人知を超えた超自然的存在。人に災いをもたらすこともあれば、幸いをもたらすこともある。

眷属(けんぞく
本来は一族、仏教では仏につき従う脇侍のこと。


【訳文】
阿弥陀仏の本願を信受して、念仏によって往生を願う人を、阿弥陀仏を始めとした全世界の諸々の仏や菩薩、また観音・勢至の両菩薩、そして数え切れないほどの菩薩たちがぐるりと囲み、平生においては昼夜を問わずに寄り添い、様々な悩みをもたらす悪しき存在による働きかけを払い除き、この現世においては不当なわずらいもなく平穏無事に、また命終わるときには極楽世界へと迎えて下さるのです。
ですから念仏を信じて往生を願う人は、悪魔を追い払おうとしてことさらに萬の仏や神々に祈願したり、物忌をすることなどどうして必要でありましょうか。ましてやこのように説かれています。
「仏に帰依し、教えに帰依し、僧伽に帰依する人に対しては、すべての神王が数限りない鬼神を眷属として従えて常にこの人を守護して下さる」
そのようなわけで、このような諸々の仏、神々が取り囲んで守護して下さるからには、これ以上どのような仏や神があって悩まさることがありましょうか。


臨終においては来迎が確かなものとなり、平生、日々の生活においては仏・菩薩の守護がある。念仏の功徳、まさにかくの如きものであるという元祖の有り難いお言葉です。日々、お念仏の道に精進して参りたいと思います。

和尚のひとりごとNo790「法然上人御法語後編第二十五」

護念増上縁(ごねんぞうじょうえん)

【原文】

問(と)うて云(いわ)く、摂取(せっしゅ)の益(やく)をこうぶる事は、平生(へいぜい)か臨終(りんじゅう)か、いかん。
答(こた)えて云く、平生の時なり。その故は、往生(おうじょう)の心(こころ)まことにて、我が身(み)を疑(うたが)う事なくて、来迎(らいこう)を待つ人は、これ三心(さんじん)具足(ぐそく)の念仏申(もう)す人なり。この三心具足しぬれば、必ず極楽に生(う)まるという事は、観経(かんぎょう)の説なり。
かかる志(こころざし)ある人を、阿弥陀仏は、八万四千(はちまんしせん)の光明(こうみょう)を放ちて照らし給(たま)うなり。平生の時、照らし始めて最後まで捨(す)て給(たま)わぬなり。故(かるがゆえ)に不捨(ふしゃ)の誓約(せいやく)と申すなり。

念仏往生要義抄より

 

 

koudai25

 

【語句の説明】
護念増上縁(ごねんぞうじょうえん)
極楽浄土へ往生を願う念仏者が、阿弥陀仏の本願力によってこうむる勝れた功徳に五つ数えられる。その第二がこの護念増上縁(現生護念増上縁)であり、念仏者が現生にて(この身この心のままに)、阿弥陀仏の守護という強力な因縁をこうむる事を示している。


【訳文】
問うて言う。
阿弥陀仏の救済の利益をこうむることができるのは、生前の日常においてか、もしくは死を迎える際の瞬間であるか、どちらでしょうか?

答えて言う。
生前の日常のときです。何故ならば、往生を願う心に偽りなく、我が身そのままの往生に疑いを挟まずに、仏の来迎を期待する人は、まさに三つのまことの心を具えて念仏を申す人です。この三心を具足しているならば、必ず極楽世界に往生する事は、『観無量寿経』に説かれる説であります。
このような志を持つ人を、阿弥陀仏は八万四千のみ光をもって照らしてくださるのです。生前の日常のときから、照らし始めて、最後の死を迎えるその時まで見捨てられることはありません。この故に捨て去ることがない誓約であると言われるのです。


彼の阿弥陀仏のご加護は、念仏を申す一切の衆生に及んでいる。そしてそれは平生の今、まさにこの身にてこうむることができるものである。仏の大慈悲を改めて信受いたします。

和尚のひとりごとNo775「法然上人御法語後編第二十四」

滅罪増上縁(めつざいぞうじょうえん)

【原文】
「五逆罪(ごぎゃくざい)と申(もう)して、現身(げんしん)に父を殺し、母を殺し、悪心(あくしん)をもて仏身(ぶっしん)を損(そこ)ない、諸宗(しょしゅう)を破(やぶ)り、かくの如(ごと)く重き罪を造(つく)りて、一念懺悔(いちねんさんげ)の心(こころ)もなからん、その罪によりて、無間地獄(むけんじごく)に堕(お)ちて、多くの劫(こう)を送りて苦(く)を受(う)くべからん者(もの)、終(おわ)りの時(とき)に、善知識(ぜんちしき)の勧めによりて、南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と十声(とこえ)称(とな)うるに、一声(いっしょう)に各々(おのおの)、八十億劫(はちじゅうおっこう)が間(あいだ)、生死(しょうじ)にめぐるべき罪を滅(めっ)して往生す」と説かれて候(そうろ)うめれば、「さほどの罪人(ざいにん)だにただ十声(とこえ)一声(ひとこえ)の念仏にて往生は、し候(そうら)え。まことに、仏(ほとけ)の本願(ほんがん)ならでは、いかでかさる事(こと)候(そうろ)うべき」と覚(おぼ)え候(そうろう)。

正如房へつかわす御文

koudai24

【御句の説明】
滅罪増上縁(めつざいぞうじょうえん)
極楽浄土へ往生を願う念仏者が、阿弥陀仏の本願力によってこうむる勝れた功徳に五つ数えられる。その第一がこの滅罪増上縁で、現世、この身で犯してしまった重い罪が、念仏を称えることによって滅する力強い因縁のこと。『観無量寿経』に説かれる。

五逆罪(ごぎゃくざい)
母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(覚りを開いた聖者)を殺すこと、仏の身体を傷つけて出血させること、修行僧の和合を乱し分裂させること、この五種の重罪を指す。

無間地獄(むけんじごく)
悪趣の中で最も恵まれない境遇である地獄界に八つを数え、その中で最下層に位置する地獄のこと。八つは、等活(とうかつ)、黒縄(こくじょう)、衆合(しゅごう)、叫喚(きょうかん)、大叫喚、焦熱(しょうねつ)、大焦熱、そして無間となる。”無間”とは地獄の責め苦が絶え間ないことを意味し、五逆罪および仏の教えを誹謗した罪を犯した者が必ず赴く世界であるとされていた。

善知識(ぜんちしき)
利益をもたらす善き友人、特に仏法への善きいざない手のことで、浄土教では往生浄土と念仏の導き手を指している。

【本文の意味】
「五逆罪と呼ばれる、父を殺し、母を殺め、悪意をもって仏の身体を傷つけ、諸々の仏教の教えを謗って和合を乱したり、このような重罪をこの生涯において犯しながらも、微塵も懺悔する心なく、間違いなくその罪過によって無間地獄へと堕ちて、まことに長い日々を、地獄の責め苦に苛まれるはずの者が、臨終の際に、善き導き手の勧めによって、南無阿弥陀佛と十回声に出して称えれば、その一声ごとに、通常であれば八十億劫もの長き間に迷いの生死を繰り返さざるを得ない罪さえも消滅して、ついに往生が叶う」、このように経に説かれているようでありますから、「それほどの重罪人でさえ、ただ十回一声のお念仏で往生することができる。まこと、阿弥陀仏の本願の力によるのでなければ、どうしてこのようなことがあり得ようか」と思う次第であります。

この身で確かに重い罪を犯してしまった者、かつて恐ろしい殺人鬼として恐れられたアングリマーラは、修行の末、遂に覚りを開いてこのように詠んだと伝えられています。
”以前には悪しき行いをした者であっても
のちに善によってそれを償うならば、その者はこの世の中を照らすだろう――”
諸縁和合すれば、我知らずに罪を犯してしまうのが偽らざる私たちの姿だとすれば、その罪業を滅し、浄らかなる仏国土へと導いてくださる仏の慈悲のありがたさが、そしてお念仏の尊さが改めて心に染みわたるような気がいたします。

 

和尚のひとりごとNo760「法然上人御法語後編第二十三」

慈悲加祐(じひかゆう)

【原文】

まめやかに往生(おうじょう)の志(こころざし)ありて、弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を疑(うたが)わずして、念仏を申(もう)さん人は、臨終のわろき事は、大方(おおかた)は候(そうろ)うまじきなり。その故は、仏(ほとけ)の来迎(らいこう)し給(たま)う事は、もとより行者(ぎょうじゃ)の臨終正念(りんじゅうしょうねん)のためにて候(そうろ)うなり。それを心得(こころえ)ぬ人はみな、「我が臨終正念にて念仏申(もう)したらん時に仏は迎(むか)え給(たま)うべきなり」とのみ心得て候(そうろ)うは、仏の願(がん)をも信(しん)ぜず、経(きょう)の文(もん)をも心得ぬ人にて候(そうろ)うなり。
その故は、称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)に云(いわ)く、「仏(ほとけ)、慈悲(じひ)をもて加(くわ)え祐(たす)けて、心(こころ)をして乱(みだ)らしめ給(たま)わず」と説かれて候(そうら)えば、ただの時(とき)によくよく申(もう)しおきたる念仏によりて、臨終に必(かなら)ず仏は来迎し給(たま)うべし。仏の来迎し給(たま)うを見(み)たてまつりて、行者(ぎょうじゃ)、正念(しょうねん)に住(じゅう)すと申(もう)す義(ぎ)にて候(そうろう)。
然(しか)るに、前(さき)の念仏を空(むな)しく思(おも)いなして、よしなく臨終正念をのみ祈る人などの候(そうろ)うは、ゆゆしき僻胤(ひがいん)に入(い)りたる事(こと)にて候(そうろ)うなり。されば、仏(ほとけ)の本願(ほんがん)を信(しん)ぜん人は、かねて臨終を疑う心(こころ)あるべからずとこそ覚え候(そうら)え。ただ当時(とうじ)申(もう)さん念仏をば、いよいよ至心(ししん)に申(もう)すべきにて候(そうろう)。

大胡太郎へつかわすご返事

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【御句の説明】
慈悲加祐(じひかゆう)
仏がその慈悲の力を加えて、衆生を助け守ること。

臨終正念(りんじゅうしょうねん)
いよいよ臨終を迎える時に、心が乱れることなく、生への諸々の執着にも苛まれることのない心境。

称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)
『称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう)』。唐の玄奘三蔵訳。『阿弥陀経』の異訳で、他に広く流通する鳩摩羅什訳『阿弥陀経』、サンスクリット原本、チベット訳など。


【意訳】
真面目に往生への志があって、阿弥陀仏の本願へ疑いを差し挟むことなく、念仏を申す人については、その臨終の際に心乱れ、往生がままならない事などあるはずがありません。何故かと申しますと、念仏する者が臨終せんとするその時に正しく定まった心となれるようにする、まさにその為に仏は来迎されるからです。そのことを心得ていない人たちは皆このように考えます。「私が臨終の際に正しく定まった心で念仏を申す時に限って、仏は来迎されるのである」。これは仏の願いも信ぜす、仏の言葉も理解していない人であります。
このように申すのは、『称讃浄土経』に「彼の仏は慈悲によって助け、その心が乱れぬようにしてくださる」と説かれており、平生によく申していた念仏によって、臨終のときには必ず仏は来迎されるのです。つまり仏が来迎されるのを目の当たりにして、念仏者が正しく定まった心を得、そこに安住するという道理なのです。
ところが、臨終に至るまでの普段の念仏は益のないものだと思い、根拠もなく臨終時の心をのみ祈る人などは、まことに道理に背いた道に入り込んでいることになります。従いまして、仏の本願を信じる人は、あらかじめ常日頃より臨終の際の心が仏の来迎によって定まるのを疑ってはならないと考えられます。ただただその時々に称える念仏を、なお一層に心を込めて称えるべきであります。


「大胡太郎へつかわすご返事」より。平生の念仏がいかほどに大切か、そして仏の来迎を信ずる気持ちこそが、臨終の際の正念をもたらすことを説き示してくださっている有り難い御法語です。

和尚のひとりごとNo744「法然上人御法語後編第二十二」

退縁悪知識(たいえんあくちしき)

往生(おうじょう)せさせおわしますまじきようにのみ、申(もう)し聞かせまいらする人々の候(そうろ)うらんこそ、返(かえ)す返(がえ) すあさましく心苦しく候(そうら)え。いかなる智者(ちしゃ)、めでたき人々(ひとびと)仰(おお)せらるるとも、それにな驚かせおわしまし候(そうら)いそ。各(おのおの)の道(みち)にはめでたく貴(たっと)き人(ひと)なりとも、解(さと)り異(こと)に、行(ぎょう)異(こと)なる人の申(もう)し候(そう ろ)う事(こと)は、往生浄土(おうじょうじょうど)のためには中々(なかなか)ゆゆしき退縁(たいえん)、悪知識(あくちしき)とも申(もう)しぬべき事(こと)どもにて候(そうろう)。

 ただ凡夫(ぼんぶ)の計(はか)らいをば聞き入れさせおわしまさで、ひとすじに仏(ほとけ)の御誓(おんちか)いを頼みまいらせおわしますべく候(そうろう)。

正如房へつかわす御文

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退縁悪知識(たいえんあくちしき)

退縁は、仏道修行において退歩・退転の縁となる要因。

悪知識は、謝った教えを説く指導者。

「往生など叶うはずがありません」

そのように申し聞かせようとする人たちがおられるそうです。誠にもって嘆かわしく気がかりな事です。たとえどのような学者の方々や、賞賛に値する人々がそのように仰っていても、それにびっくりなさってはなりません。それぞれの道において立派で尊敬すべき人であっても、教えに対する理解の仕方が異なり、従って修行の方法も異なっている人の仰る事は、私たちの目指す浄土への往生の為には、かえって妨げとなったり、誤った道へと進ませる結果にもなると申し上げるべきでしょう。

仏ならぬ凡夫の考えを顧みず、ひたすらに仏のお誓いをこそ頼みとなさい。

 

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