Monthly Archives: 6月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板375

wagami

さて我々の身心はどうだろうか?
身も心も原因と条件によって出来上がっているものである。
従ってここには実体というものがない。
原因と条件によって成り立っているものであるから
常ならざるものであり、思いのままにならぬものである。
あたかも王が自ら統治する国において
願い通りに賞罰を与えることが出来るにも関わらず
願わないのに老い、何一つとしてわが身については思いのままにならぬが如くである。

自らの心を見よ。
善を為そうと欲してもままならず
悪を為さずと欲しても望み通りにはならない。

和尚のひとりごと「伝道掲示板374

hutono

”牛飼いを見よ。
彼らは秋の収穫期を迎えると、飼っている牛を小屋に閉じ込めてしまう。
それは収穫物を荒らされたり、牛が殺されてしまうのを避けるためである。

人の心も同様に
悪しき事から結果する禍を見て
自らの心を閉じ込めて
悪しき思いから遠ざかるようにせねばならない。
貪り、怒り、損なう心を打ち砕いて
それらのない心を育てなければならぬ。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板373

hihanennryou


解脱を成し遂げた如来は、死後どこへ再生するのでしょうか?
ヴァッチャの問いに対して釈尊が答えて仰った。

「火は何を原料として燃えているのであろうか?」
「それは燃料があるからこそ燃えているのです」
「それではその燃料が底を尽いたとき、
燃え盛る焔は一体どこへ行くのであろうか?」
「火はただ消えるのみで
どこかへ行ってしまうのではないのです」

如来の死後もかくの如くである。

和尚のひとりごと「伝道掲示板372

hihanennryou

解脱を成し遂げた如来は、死後どこへ再生するのでしょうか?
ヴァッチャの問いに対して釈尊が答えて仰った。

「火は何を原料として燃えているのであろうか?」
「それは燃料があるからこそ燃えているのです」
「それではその燃料が底を尽いたとき、
燃え盛る焔は一体どこへ行くのであろうか?」
「火はただ消えるのみで
どこかへ行ってしまうのではないのです」

如来の死後もかくの如くである。

和尚のひとりごと「伝道掲示板371

akugyou

コーサラ国王は云わく。
”自己より愛しい存在はないと口にしながら悪を為す者は
自己を敵の如く扱う事ではないのか”

釈尊がそれに対して仰るには
”誰であれ、その身体で、言葉で、心によって悪を為す者たちは
その者自身にとり自己は愛すべき者ではない。
もし自己を大切に考えるならば、
自身を悪から遠ざけなければならぬ。
悪行を為す者に、安楽が訪れる事は、実に容易なことではないのだから。”

コーサラ・サンユッタ(拘薩羅相応)より

和尚のひとりごとNo622「法然上人御法語後編第十四」

四修(ししゅ)
【原文】
問う。信心(しんじん)の様(よう)は承(うけたまわ)りぬ。行(ぎょう)の次
第(しだい)、いかが候(そうろ)うべき。
答(こた)う。四修(ししゅ)をこそ本(ほん)とする事(こと)にて候(そうら)え。一つには長時修(じょうじしゅ)、乃至(ないし)、四(よ)つには無余修(むよしゅ)なり。
一つには長時修というは、善導は「命の終るを期(ご)として誓(ちか)って中止せざれ」と云う。
二つに恭敬修(くぎょうしゅ)というは、極楽の仏・法・僧宝(ぶっぽうそうぼう)に於(おい)て、常に憶念(おくねん)して尊重(そんじゅう)をなすなり。
三(み)つに無間修(むけんじゅ)というは、要決(ようけつ)に云(いわ)く、「常に念仏して往生の心を作(な)せ。一切の時に於(おい)て、心に恒(つね)に想い巧(たく)むべし」。
四(よ)つに無余修(むよしゅ)というは、要決に云く、「専(もは)ら極楽を求めて弥陀(みだ)を礼念(らいねん)するなり。ただ諸余(しょよ)の行業(ぎょうごう)を雑起(ざっき)せざれ。所作(しょさ)の業(ごう)は日別(にちべつ)に念仏すべし」。

要義問答より
koudai14
【語句の説明】
四修(ししゅ)
念仏実践に必要な四種の態度や方法。すなわち念仏実践の仕方を示したもの。
浄土宗では願往生者の心構えと具体的な実践について「安心・起行・作業(あんじん・きぎょう・さごう)」という形で概括している。「安心」とは浄土往生を求めるにあたり具えているべき三つの心(三心)であり、「起行」とはその安心に基づいて実践すべき行法(五種正行)であり、「四修」とはそれらの行法を日常生活において策励していく為の四種の態度である。

長時修(じょうじしゅ)
恭敬修、無間修、無余修を臨終の際に至るまで一生涯にわたって継続する事。

恭敬修(くぎょうしゅ)
敬い尊重する態度で実践する事。恭敬の対象は、極楽の阿弥陀仏ならびに菩薩や聖衆、阿弥陀仏の尊像や浄土を説く経典、浄土の教えを説く人々や共に教えを行する者たち、そして仏法僧の三宝であるとされる。

無間修(むけんじゅ)
あたかも遠い故郷の両親を片時も忘れないように、常に極楽への往生の想いを抱き、他の行法によって間断させない事。

無余修(むよしゅ)
専らに阿弥陀仏と西方浄土に関連する行のみを行い、他の行を顧みない事。

憶念(おくねん)
常に心に留め、忘れない事。

要決(ようけつ)
正式には『西方要決釈疑通規(さいほうようけつしゃくぎつうき)』。中国法相宗の祖である慈恩大姉基の撰とされる。西方浄土への往生を勧める為に、弥勒の兜率天との優劣や他の教義との相違などを横断的に注釈した書。


【現代語訳】
伺います。
信心の在り様については既に謹んで承りました。それでは行(おこない)の進め方についてはどのようにあるべきでしょうか?

答えよう。
それは四修を根本とするのです。それは第一の長時修より、第四の無余修に至るものです。
第一の長時修については、善導大師はこのように仰っています。
「命終わるその時まで、誓って中止せざること」。
第二の恭敬修とは、極楽世界にまします仏と教えと修行者の集いという三つの宝に対して、それを常に忘れず心に留め、尊重するように心がける事であります。
第三の無間修とは、『西方要決』によれば、「常に念仏をして往生を願う心を持て、あらゆる瞬間にそのことを心に想うように工夫をこらせ」とある通りです。
第四の無余修とは、『西方要決』によれば、「極楽を求めて阿弥陀仏に礼する心を専らとする事である。その他の種々の行法を交え行じてはならない。すべき事は、毎日のように念仏を行う事である」とある通りであります。

元祖上人の『一枚起請文』に示される如く、「浄土宗の安心、起行」を一言で表すならば「ただ一向に念仏すべし」。
そしてその実践において、心掛けるべき態度がここに示されている。
合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板370

konoyo

”この世には母でさえもその子を救い得ず
子供もその母を救い得ない三つのケースがある。
それは「老い」と「病への恐怖」と「死にゆくことの恐れ」とである。
我が母が老いさらばえてゆくのを、その子が身代わりになることが出来ようか?
我が子が病によって苦しむ姿をみても、母はその代わりに病の苦しみを引き受けることが出来ようか?
我が子の死、母親との死別、いかに母子であっても、互いに身代わりになれないことが存在する。
いかに深い愛情で結ばれていようとも、このような場合には
絶対に助けることがかなわないのである。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板369

jikai

”居士らよ、持戒者に備わる功徳には次の五つが数えられる。
第一に、財を得られること
第二に、周囲より良い評判を得られること
第三に、会合を開いたときに、何事にも動じない落ち着きを得られること
第四に、臨終の際において、精神が錯乱することを免れること
第五に、死後に今より善き境涯、つまり天界への生まれることが出来ること
以上である。”

居士(グリハパティ)とは在家の身でありながら、戒を守り、仏道を歩まんとした人たちのこと。
釈尊は在野にあっても、持戒の功徳がかくの如くであることを説いた。

和尚のひとりごと「伝道掲示板368

baramon


”錐の先から芥子粒が落ちるが如く、愛着と憎悪と高慢と欺瞞とが脱落した人
このような人を、私はバラモンと呼ぶ。

荒々しい態度に出ることなく、物事の本当の姿を明確に伝え
言葉によって何人の感情をも害することなき人
このような人を、私はバラモンと呼ぶ。

この世において、長いものであれ短いものであれ
微細なものであれ粗大なものであれ
浄らかであろうと汚れていようと
いかなるものについても、与えられていないものを取らない人
このような人を、私はバラモンと呼ぶ。

現世に望みを持たず、来世にも望みを持たず
欲求を持たずして、捉われのない人
このような人を、私はバラモンと呼ぶ。”

バラモンとは尊敬に値する人を指している。
ここに表されている釈尊が理想とした人格は
私達もまた目指すべき沙門の姿である。

和尚のひとりごと「伝道掲示板367

sandoku


”貪りと怒りと愚かさは熱の如くである。
人はこれらに苛まれて
あたかも発熱によって眠りにつけないように苦しめられている。

反対にこれら三毒がない人は
寒い季節の夜に、木の葉でできた粗末な寝床においても
また蒸し暑い季節の狭苦しい部屋の中においても
安らかに眠りにつくことができるであろう。”