Monthly Archives: 4月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板322

『釈尊の言葉その18』

初転法輪(しょてんぽうりん)において説かれた教えは中道の教えであり
四諦八正道(したいはっしょうどう)であったと伝えられる。
四諦(四つ聖なる真理)とは。苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つの真理である。
生きることは本質的には苦悩であり、その苦悩には煩悩という原因があり、
その煩悩を滅する事で苦悩が滅し、そのための道が八つの実践の道である事。

この教えを聴いたのち、かつて苦行をともにした5人のうちの一人、
コンダンニャ(憍陳如、きょうちんにょ)に法眼が開いたという。
法を見る眼、すなわち世の実相を理解する智慧が生じたコンダンニャは釈迦の最初の弟子となった。
現在に至るまで仏教の四大聖地に数えられる鹿野園(サールナート)での出来事である。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板321

sono17

菩提樹下で無上の法を悟ったのち、もはや敬うべき師がいないことを思い、
釈尊はこのように決意した。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板320

『釈尊の言葉その16』

ある時、夜叉(やしゃ、鬼神の一種)が釈尊に申すに、
”汝はすでに解脱を果たし、あらゆる束縛を逃れたはずだ。
にも関わらず、人々に教えを説くのは矛盾してはいないのか?
輪廻から解脱し、束縛を離れた者は、
人とのかかわりという新たな束縛を持つべきではない。”

それに対して釈尊が答えた言葉である。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板319

sono15

出家が守るべき戒律に最も精通していた事から「持律第一(じりつだいいち)」と
称せられた優波離(ウパーリ)に仰った言葉。
優波離は釈迦族の理髪師であり、当時のインドの身分制度(ヴァルナ)では
最下層のシュードラ(奴隷)の出身であったという。
優波離が出家を申し出たとき、釈尊はその出自に拘らずそれを許し、
また数ある志願者の中で、まず最初に彼を出家させたと伝えられる。

優波離はある時、阿蘭若(あらんにゃ、人里離れた山林や荒野)の行をしたいと師に申し出たが、
釈尊はたとえをもってこのように諭した。

”大きな象にとって楽し気な池での水浴も、
小さな人間にとっては恐ろしい体験となることもある。
そのようにそれぞれの身の丈にあった行を行うべきである。
そなたは衆中にて(ひとりではなく仲間とともに)修行を続けるように。”

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板318

『釈尊の言葉その14』
世の中は泡沫(うたかた)の如し、
世の中は陽炎(かげろう)の如し。
この世をそのように観察する者は、
死の王が彼を見ることもない。
この身体は泡沫の如し、
この身体は陽炎の如し。
この世をそのように観察する者は、
死の王が彼を見ることもない。
この身体をよく見よ。
王者の車のごとく美麗なり。
愚者はそれに惑い、賢者はそれに執着しない。

合掌

和尚のひとりごとNo560「法然上人御法語後編第十」

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深心(じんしん) 勅伝第22巻
【原文】
初めには我が身(み)のほどを信じ、後(のち)には仏の願を信ずるなり。
その故は、もし初めの信心(しんじん)を挙げずにして後の信心を釈(しゃく)し給(たま)わば、もろもろの往生を願わん人、たとい本願の名号をば称(とな)うとも、自ら心に貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)の煩悩(ぼんのう)をも起こし、身(み)に十悪(じゅうあく)・破戒(はかい)等の罪悪(ざいあく)をも造りたる事あらば、妄(みだ)りに自身を軽(かろ)しめて、身のほどを顧(かえり)みて、本願を疑い候(そうら)わまし。「今この本願に、〈十声(じっしょう)一声(いっしょう)までに往生す〉というは、おぼろげの人にはあらじ」なぞと、覚え候(そうら)わまし。
しかるを善導和尚(ぜんどうかしょう)、未来の衆生の、この疑いを起こさん事を鑑(かが)みて、この二つの信を挙げて、我等(われら)がいまだ煩悩をも断(だん)ぜず、罪業(ざいごう)をも造る凡夫(ぼんぶ)なれども、深く弥陀(みだ)の本願を信じて念仏すれば、一声(いっしょう)に至るまで、決定(けつじょう)して往生するよしを釈し給えるこの釈の、殊(こと)に心に染(そ)みて、いみじく覚え候(そうろ)うなり。
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深心(じんしん)
『観経』に示される往生の為の三つの心のうちの一つで、「深く信ずる心(善導大師)」のこと。これを信機・信法の二種深信として理解する。
まず「信機」とは、自身が遥かな過去世より罪悪を造り、解脱の縁なき凡夫であることを信ずることであり、「信法」とは、そのような罪悪生死の身でありながら、阿弥陀仏の四十八願の願力により来迎引接を経て往生が遂げられることを信ずることである。

貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)の煩悩(ぼんのう)
三毒に代表される根本的な煩悩のこと。三毒(三不善根 さんふぜんこん)とは、貪(ラーガ、むさぼり)・瞋(ドヴェーシャ、いかり)・痴(モーハ、おろかさ)を指している。

十悪(じゅうあく)・破戒(はかい)等
10種の悪業のことで、十不善業道(じゅうふぜんどう)とも。これらの悪業は悪趣(悪しき境涯)に赴く要因となるとされる。
まず身体で行う身業である、殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪婬(じゃいん)の三つ、次に発語して行うところの口業である、妄語(もうご)、両舌(りょうぜつ)、悪口(あっく)、綺語(きご)の四つ、そして心で思う意業である、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、邪見(じゃけん)の三つ、以上で10となる。

〈十声(じっしょう)一声(いっしょう)までに往生す〉
善導大師『往生礼讃』より。多くは生涯にわたり、少なくとも十声ないし一声であっても、仏の本願力により往生を遂げられるの意。


初めに自分の能力の程度を弁え、のちには阿弥陀仏の本願を信じることです。
というのも、もし(善導大師が)初めの信心を挙げることなくして、あとの信心にのみに解釈を施して下さったならば、全ての往生を願う人々が、たとえ本願の念仏を称えたとしても、自身の心の内にむさぼりや憎しみといった煩悩を起こし、その身体をもって十種の悪業や仏教で大切にしているいさめ(戒)を守らないなどの行動に出れば、はっきりとした根拠もないままむやみに自分自身の程度を貶め、身の程を反省した結果、かえって本願自体を疑うことにもなり兼ねません。「今、彼の阿弥陀仏の本願の中に〈十回ないし一回の念仏でさえ往生は叶うのだ〉とされているのは、(私のような)ありきたりの平凡人を指しているのではないだろう」などと考えるかも知れないのです。
ところが善導和尚は、未来の人々が、いずれこのような疑いを起こすであろうことも見越して、この二つの信心を挙げて「私どもは未だに煩悩さえも断ぜず、罪深き行いさえも重ねている凡夫であるけれども、心から深く阿弥陀仏の本願を信じて念仏することで、一回の念仏によってでさえ、往生は確かなものとなるのだ」との解釈を残されました。この解釈はまことに私たちの心に深く染みわたる、並々ならぬものだと感じるところであります。


善導大師による信心の解釈が、未来世の衆生を思い遺されたものである事を改めて拝受致し、私たちも尊いお念仏の御教えを伝えていきたいと思います。

和尚のひとりごと「伝道掲示板317

『釈尊の言葉その13』

釈尊の実子ラーフラはのち釈尊の元で出家の身となったと伝えられる。
実子に対して釈尊は問うた。
世間の迷いの闇を松明の明りで照らし
人々に進むべき道を示す聖者たちに対し
お前は果たして尊敬の念を持てているだろうか?

ラーフラはこれに答えて云わく、
たとえ共に住む事に慣れたとしても
私は決して賢者たちを軽蔑するような心は持ちません。
人々のために炬火(たいまつ)をかざす賢者を、わたくしは常に尊敬しています、と。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板316

『釈尊の言葉その12』

かつてネーランジャラー河畔にて修行に励んでいた釈尊に悪魔(夜叉、やしゃ)が語りかけた。
云わく、
あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
きみよ、生きよ。生きたほうがよい。
命があってこそ諸々(もろもろ)の善い行いをする事ができるのだ。

釈尊がそれに答えて云わく、
悪(あ)しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだろうが、
わたしはその(世間の)善業を求める必要性は微塵も感じていない。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ、そのように語るがよい。

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪(好き嫌い)であり、
第三の軍隊は飢餓であり、第四の軍隊は妄執(とらわれの心)である。
第五の軍隊はものうさ(やる気のなさ)、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。
第七の軍隊は疑惑であり、第八の軍隊はみせかけと強情と、
利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
これらこそが汝の軍勢である

釈尊の言わんとする事は、世間的な価値の全てが斥けるべき悪魔の軍勢であるという事だろうか。
釈尊は悪魔の声には耳を貸さずに、自ら信ずるところに従って努め励み正覚を得るに至った。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板315

No11

古来より人は三帰依文を唱えることで仏教徒となった。
仏教徒とは釈尊の教えに従う者を意味し、日常生活に特段の拘束力は持っていなかった。
家の宗教であるバラモン教に従って生活を律しながら
個人として仏の教えに帰依することが行われていた。
仏教徒になる条件は、仏・法・僧の三つの宝に帰依する、それだけで十分であった。
仏は覚りを得たブッダ、法がその教え、僧(僧伽)は修行者の集いを意味する。

この三帰依文は伝統的に三度唱えられる。
現在でも仏教徒が国際的な集いを行うときは、パーリ語で合誦する事になっている。

和尚のひとりごと「伝道掲示板314

『釈尊の言葉その10』

『相応部経典』婆羅門(ばらもん)相応より。
「決して危害を加えない」と評判のバラモンに対して、釈尊はこのように仰った。

釈尊が婆羅門(バラモン)と呼ぶのは、インド社会で最高位にある聖職者のことではない。
それは家なき身となり、真摯に道を究め、心の清浄を実現せんと励む人のことである。

ただ身体的行為によって危害を加えないだけではなく、
言葉をしても、心によっても、他者を攻撃することなく、よく自己を制すること。
身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三業(三つのおこない)に慎みをもって生活することの大切さが示されている。

合掌