Q&A

No972「五重相伝Q&A 4」

Q. 五重相伝を受けて戒名をいただきました。(○譽○○禅定門)その戒名に不満があれば変更は可能ですか

A. 五重相伝で授かった戒名は誠に尊いものです。何故ならばお念仏の奥義を受け継ぐ得難い機会を得て、その儀式の中で授かったお戒名だからです。

生前に授与された戒名をもし変えたいのであれば、それは可能かもしれませんが、五重相伝で授かった戒名とは少し意味合いが異なって参ります。

その点は是非ともご留意ください

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。

No969「お念仏を称え続ける」

Q. 浄土真宗門徒は極楽(彼らはお浄土と呼んでいる)へ必ず行けるというが
 浄土宗は必ずしも約束されていないんですよね
  ※浄土真宗の場合閻魔大王の審判がないと聞きました

お浄土と呼び、極楽と呼んでも、その意味するところは異なりません。阿弥陀さまが一切の衆生を救うために建立された西方の仏国土の事です。
浄土真宗の教えでは、極楽への往生は既に定まっている事と考えるとうかがったことがあります。またお念仏を称えることも積極的には勧められないそうです。それに対して浄土宗では、極楽往生を望み仏が示して下さったお念仏という実践を伴えば必ず往生が叶うのだと考えます。
それは私たちが最も大切にしている浄土三部経の中の『仏説無量寿経』の中にこのように書かれているからです。
「あらゆる世界の衆生が、真実のこころをもって深く信じて極楽への往生を願い、十遍南無阿弥陀仏と称えたにもかかわらず、往生しないということがないようにしたい」(浄土宗大辞典)より。
これはかつて修行時代の阿弥陀さま(法蔵という名のお坊さんでした)が、悟りを開いて仏となることを目指すにあたりたてた誓いの中で最も大切な第十八目の願の内容です。私たちは他ならぬ仏のこのお言葉を信受してお念仏に励むのです。


そして生涯にわたりお念仏を続けることには、もう一つ大事な意味があります。私たちは凡夫です。たとえ極楽への往生が決まっていると頭で理解していても、疑いの念が起こり、不安となり、ときには教えへの不信感さえも生まれるかも知れません。しかしたとえどんな時でもお念仏を続けていれば、極楽往生への確信は深まり、余計な思いは心より去って、往生に必要な心のまことさえも自ずと培われるのです。

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。

No966「天国」

Q. 「天国へ行く」、との表現をしがちですが仏教でもつかってよいのですか

ご理解頂きたいのは、「天国」と「極楽」はその意味するところが違うという事です。
仏教が目ざすのは悟りを開くこと、そして極楽世界に行けば仏の導きのもと、悟りへと歩みを進めることができると考えます。私たちが志すのは、阿弥陀如来がおわします西方の極楽と呼ばれる仏国土に往生することです。キリスト教でそう呼んでいる「天国」は、神による最後の審判が下された結果、選ばれた人々がそこに迎えられ、永遠の生を手にすることができる世界です。
極楽と天国はこのように異なりますが、仏教で天の国(天界)と呼ぶときは、人間よりも少しだけ優れていて、比較的恵まれた生活を送れる神様たちの世界を指します。しかしこの天界に生まれても、必ず死を迎え、その次に人間などに生まれ変わるのは難しいとも言われています。あまりに恵まれ過ぎていて、大切なことを考える暇がないのかも知れませんね。

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。

No963「地蔵十王経」

Q. 五七日目に閻魔大王の審判が下り、行き先が決定されるのですか?

※最近私は友人宅の五七日に参加した折、葬家の家族にそう伝えてみんなで閻魔大王に極楽往生の陳情を行いました。

A.  人は亡くなってから49日間の間に次の新たな生命を受けると考えられています。これを中陰(中有)と呼んでいます。この言葉の意味は、次の生命に至るまでの中間の生存(プロセス)という意味です。そして生前の行いや思いは人それぞれ異なります。従いまして人によっては49日間を待たずに次の生命を得る方もいれば、最後の49日目までこの世界に残っている人もいると考えられます。この期間に香を絶やさぬように言われてきたのは、肉体は持たずともよい香りを楽しむことが出来ると考えるからです
さて私たちになじみ深いお話では、閻魔大王(えんまだいおう)が生前の行いを審判し、その結果で往き先が決まるというものです。詳しくはこのように伝えられています。
まず最初の七日間(初七日 しょなのか)には、不動明王が生前の殺生の行いを調べます。
次の二七日(ふたなのか)には、釈迦如来が生前の盗みの行為について調べます。
続く三七日(みなのか)には、文殊菩薩が生前の不貞について調べます。
四七日(よなのか)には、普賢菩薩が生前についた嘘について調べます。
そして五七日(ごしちにち)には、閻魔大王(もしくは地蔵菩薩)が生前の罪状全般を調べます。
六七日(むなのか)には、弥勒菩薩が生まれ変わりの条件を吟味し、最後の七七日(しちしちにち)に、薬師如来が六つの世界(六道)の中から往き先を選び、晴れて次の生まれ変わりが決まるというものです。
この考え方は仏教の中陰の考え方と中国の道教が習合したもので、さらに鎌倉時代に成立した『地蔵十王経』に至るとなじみ深い三途の川や奪衣婆の登場を見ることにもなります。
ただしこれらを経験して生還した人はおりませんし、生まれ変わると全て忘れてしまうと言われています。自信をもって死後にこれらの審判を受けるのだと断言できる方はいらっしゃらないでしょう。
このような考え方が広く流布した背景には、次の生命を得るにあたっては、それまでの人生での行いを全て清算して新たなスタートを切る準備期間が必要だと考えられたからではないでしょうか。また人は生きていく上で誰もが善い行いだけではなく時には後ろめたい行いをしたり、心に思ったりするものです。それをあとから後悔するよりは、生前から善き行いを心掛けて心の安心を得ていたい、そのような願いが込められているのかも知れません。


 さて私たち浄土宗の教えでは、直接的に死後どうなるのかについてはあまり問題にはしません。それは生前のお念仏によって臨終を迎えた時には必ず仏と聖衆の来迎があり、極楽へと迎え取られてゆくと考えるからです。先立たれた方の後生を良き方向へと導くこと、追善の回向で故人の冥福を祈ることは誠に尊いことです。しかしながらお念仏による往生を願う皆さまは、是非とも平生のお念仏の生活の中で心の安心を得て頂きたいと考えます。

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。

No960「五重相伝Q&A 3」

Q. 五重相伝を創始したのは浄土宗鎮西義白旗派ですか?

A.  はいそうです。本来は出家のお坊さんが受けるべきとされた浄土宗の教えの奥義の相承(伝法)を五重相伝という形で確立したのは、浄土宗第七祖であり、私たちがその流れを受け継ぐ浄土宗鎮西義の白旗派の聖冏(しょうげい)上人であると伝えられています。
別の流れではありますが、浄土宗西山派でも教えの相承に五重相伝を用いています。しかし内容は私たちの五重相伝とは異なっています。

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。

No958「五重相伝Q&A 2」

Q. 檀家になっている寺は檀那寺と呼ぶのですか?

A.  はいそうです。檀那寺とはご自身、もしくは家が帰依しているお寺のことで菩提寺とも呼びます。そして菩提寺や自らが帰依するお寺のお坊さんは、仏法やお念仏の教えとの関係を切り結び、深めてくれる大切なご縁となります。
檀那(ダーナ)とはインドの言葉で施主を意味し、昔から仏法を支え後世へと伝えていくのに大きな役割を果たしてきました。

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。

No956「五重相伝Q&A 1」

Q. 五重相伝を卒業(? 表現がわかりません)したら在家出家したことになりますか?

A.  私たちは五重相伝のような大切な行を「満行 まんぎょう(成満 じょうまん)」したと呼びならわしています。
「在家」と「出家」は本来相反する意味合いを持ちます。かつてお釈迦さまが真の道を求められたとき、家を出て、王位を捨て、財産からも離れた生活を選ばれました。これが仏教における出家のはじまりであり、私たち僧侶もまたお釈迦さまの歩まれた生活を理想として日々精進すべきものとされています。在家とは仏法に寄り添いながらも、家を出る事なく自らの社会的責務を果たしている皆さまのことです。
ご質問ですが、五重相伝を受け教えの奥義を受け継いだ皆さまは、出家でこそありませんがそれに準じた貴い経験を経て今に至ります。皆さまには五重相伝で受けたお念仏の、み教えを得難き糧として、これからの人生を歩んで頂きたいと思います。

※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。