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和尚のひとりごとNo143「運慶」

 

私たちが、お寺で合掌させて頂いている仏さまのお像(仏像)を作製されている方を仏師と呼びます。仏師とは、あまり聞きなれないかと思いますが、歴史的に有名なのが、運慶 快慶です。このお二人の名前は、一度は聞いたことがあるかと思います。

今回は、運慶についてご紹介させて頂きます。

 

運慶は平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍されたかたです。

この頃の仏師は大きく三つのグループに分かれており、名前に「院」がつく「院派」、「円」がつく「円派」そして「慶」がつく「慶派」です。

院派 円派は京の都を中心に活動し、慶派は南都(奈良)を中心に活動していました。

運慶は「慶派」に属しています。

 

平安時代の仏像は衣文(えもん)(仏さまがまとっている衣)が浅く体が薄い仏像が主流でしたが、運慶は、肉厚で力強い姿で写実的なたくましい姿の仏像を造っていきました。有名なのが、東大寺南大門の金剛力士像です。konngourikisi

このお姿の仏像は、当時台頭してきた武士階級に支持され京の都だけでなく東国(鎌倉)にまでその活動範囲ひろげていきました。

 

法然上人と同じ時に活躍されていましたが、お二人がお会いしたことがあるかは、史料がないので不明ですが、法然上人は、運慶を高く評価されていたようです。

法然上人のご法語(法然上人の手紙や言葉を集めたもの)の第二十にその名前をみることができます。

第二十           難修観法

 近来の行人、観法を、なす事なかれ。

仏像を観ずとも、運慶快慶が、作りたる、佛程だにも、観じ顕すべからず。

極楽の荘厳を、観ずとも桜梅桃李の、花菓程も、感じあらわさん事、かたかるべし。

彼の佛今現に世に在して成仏し給へり。

まさに知るべし、本誓の重願虚しからざる事を。

衆生称念すれば、必ず往生を得の、釈を信じて 深く、本願を頼みて、一向名号を唱ふべし。名号を唱ふれば、三心自ずから具足する也。   『 勅伝 第二十一 』

「口語訳」

近頃の修行者は瞑想にふける観方を修行しなくてもよい。

たとえ仏の相好を観方したとしても、運慶や康慶という大仏師がつくり上げた仏像ほどに立派な姿を観じ現すことができない

極楽浄土の荘厳を観想したにしても、この世の桜、梅、桃、李の花や果実ほどに美しく観じ現すことは難しいであろう。

善導大師が「阿彌陀佛は現にとなって極楽浄土にまします。

このことによって四十八願のすべてが成就されていることを知るのである。

もし、人が念仏を唱えれば必ず極楽往生ができる」と説いている言葉を信じ、

心から本願を頼んで一向に念仏を唱えなければならない。

一向に念仏を唱えさえすれば、自然に三心が具わるのである。

和尚のひとりごとNo142「南無阿弥陀佛 いまを生きる」

 

 南無阿弥陀佛のお念仏は最期臨終の夕べ、阿弥陀様に迎えに来ていただいて西方極楽浄土に往き生まれさせていただくという教えです。ですから死後の事を説く、今を生きる人々には無用の教義だと古くから揶揄する方もおられたそうです。しかし「後生の一大事」と後の世の事をキチッと思い定めてこそ、今を生き切れるのであります。

 『無量寿経』の一節には「老病死を見て世の非常を悟る。国と財と位を棄てて山に入りて道を学す」と説かれております。これはお釈迦様の伝記に習った修行者のあり方です。先ずは老・病・死の有り様を見てこの世の無常をさとり、国や財宝や王位を捨てて、悟りへの道を学ぶ為に山に入り修行していくのです。私たちも先ず老・病・死の有り様を見て我が事であるとしっかり受け止めてこそ、今の生活が充実出来るのであります。しかしどうでしょうか?「老を嫌い、病を恐れ、死を隠す」姿が現実の我々の日常ではないでしょうか?12gatu

 江戸時代に谷風(たにかぜ)という関取が居られました。ある日の事、道中で小さな小僧に出会い、「関取、一番取りましょう」と言ってきた。「何じゃ小僧!ワシを谷風と知っての事か?」と言うと「知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ」と言い返された。「おのれ生意気な小僧め!サァどこからでもかかってこい」と大声で谷風関が怒鳴りながら取り組んだところ、この小僧なかなかの腕っ節の強さであります。谷風は満身の力を出しましたが遂に草むらの中に投げられてしまいました。驚いた谷風、「小僧しばらく待った!この谷風は天下無敵と言われたものじゃが、お主はワシよりも強い。一体お前は何者じゃ?」すると小僧は、「私はあなたよりも強いですよ。あなたは“谷風”、私は“無常の風”ですもの」と言われたそうです。これは一つの笑い話ですが、仏法の真理、普遍的な教えが説かれた笑話であります。“無常の風”にかかってはどんな関取、英雄豪傑、力持ちでも敵いません。しかし無常の世の中、その無常を我が事であるとしっかり受け止め、そしてこの世を生ききった先にはお浄土が有ると思い定めれば、死生(ししょう)ともに煩いはないのであります。

 またお念仏は、お浄土で縁あるお方と再会出来るという御教えでもあります。更にお浄土に往けば引接縁(いんじょうえん)と言ってこの世に残してきた縁ある人を同じ西方極楽浄土へと導く事が出来ます。法然上人は「先に生まれて、後を導かん、引接縁はこれ極楽の楽しみなり」とお言葉を遺されております。つまりお浄土に往ったならば「引接縁」こそが一番の楽しみであると仰られたのです。亡き人とまた再会出来るという事、或いは自分が先に命尽きても残してきた人とまた会えるという楽しみがある事は、死という苦しみから解放される最上の教えであります。無常の世の中でありますが、その先には無常ではない常住のお浄土の世界がある。亡き人ともまた会えるという事を共々に生きがいにしていただき、今をしっかり生き切りましょう。