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法然上人御法語第九
【原文】
念仏の行者の存じ候(そうろ)うべき様(よう)は、後世(ごせ)を恐れ、往生を願いて念仏すれば、終るとき必ず来迎(らいこう)せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)のこと候わず。
三心(さんじん)と申し候うも、ふさねて申す時は、ただ一つの願心(がんしん)にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば、至誠心(しじょうしん)と申し候。この心のまことにて、念仏すれば臨終に来迎すということを、一念も疑わぬ方を、深心(じんしん)とは申し候。この上、我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと欲(おも)い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを、廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。
この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自ずから三心は具足することにて候うなり。
(『勅伝 第二十四巻』)
【ことばの説明】
安心(あんじん)
安心とは詳しくは、「心念を安置すること」を指し、修行によって得られる心の安定した状態を意味する。浄土教においては、阿弥陀仏の本願に誓われた念仏によって、凡夫の散乱する心のままで決定往生の確信を得ること、そのことを安心と呼ぶ。
また浄土宗では安心とは、所依の『観無量寿経』に説かれる「三心(さんじん)」であるとしている。三心とは、阿弥陀仏の浄土に往生する者が持つべき三種の心構えのことで、至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)を指す。
「『観無量寿経』に説いていわく〈もし衆生ありてかの国に生れんと願ずる者は三種の心を発してすなわち往生すべし。何等をか三つとす。一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は必ずかの国に生れる〉と(法然『浄土宗略抄』)」
第一に至誠心とは、身口意の三業(全ての行為や発言や思い)が必ず真実の心にて行われるべき事。
第二に深心とは深く信ずる心であるが、具体的には自分自身が煩悩を具えた凡夫であり、実践できる善き行いは少なく、このままでは輪廻から抜け出る事が難しい、それが故に阿弥陀仏の本願に誓われた念仏により必ず往生を遂げる事ができると信じ疑い無き事を言う。
第三に廻向発願心とは、所修の功徳(自ら為した様々な行いの功徳)を浄土往生という一事にふり向けて往生を願う心の事。
善導大師によれば、この三心を具足する事が往生浄土の条件とされたが、法然上人によれば、称名念仏を実践する中で三心は自ずと具わってくるとされる。「三心四修と申すことの候うは、皆 決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちに こもり候うなり(一枚起請文)」。
さらに、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい)禅師の『伝通記糅鈔(でんずうきにゅうしょう)』によれば「念を所求所帰去行の三に置くを安心と云うなり」と言い、所求所帰去行(しょぐ しょき こぎょう)の三つに心を定めることを安心と定義している。
「所求所帰去行」とは、浄土宗の信仰や教行における三要素であり、目的(所求)と対象(所帰)と実践(去行)を指す。それぞれ所求(信仰の目的)は往生浄土(浄土に往生すること)、所帰(信仰の対象)は阿弥陀仏、去行(信仰の実践)は本願念仏であるとされている。
後世(ごせ)
三世(前世、現世、来世)の一つ来世の事。今世での生を終えたのち、生まれかわりを果たした次の生存。
これを「恐れる」とは、次の世において再び迷いの境遇に生まれついてしまう事を危惧して、という意味。
来迎(らいこう)
臨終を迎えた念仏行者のもとに、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来ること。すなわち浄土宗では来迎とは臨終来迎を指す。
これは『無量寿経』に説かれる四十八願中の第十九「来迎引接願」に基づき、また『阿弥陀経』には「その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸もろの聖衆とともに、現にその前に在まします」とある。
なお「らいごう」と読む宗派もあるが、浄土宗では「らいこう」と読み慣わす。
ふさねて
「かさねて」の意味。
至誠心(しじょうしん)
深心(じんしん)
上記安心を参照。
行業(ぎょうごう)
身・口・意の三業の所作。つまりあらゆる行い。
廻向心(えこうしん)
廻向発願心のこと。上記安心を参照。
【現代語訳】
念仏を行ずる者が心得ておくべき事は、(自らの)来世(の生まれ変わりにおける苦しみ)を案じ、(浄土への)往生を願って念仏すれば、(命が)尽きようとするその瞬間に必ず(阿弥陀仏並びに聖衆)が迎えて下さると信じて、念仏を称える事に他ならない。
三心(という往生に必要な心構え)というものも、要するに、ただ一つの(往生を)願う心以外のものではない。その願う心に偽りがなく、表面のみを取り繕うこともない点を「至誠心」と呼ぶのである。この心が真(まこと)から出た心であり、念仏を行えば命終わる時に(阿弥陀仏が)迎えに来て下さるという事を、微塵も疑わない点を「深心」と呼ぶのである。さらに、(まさに)私自身が彼の浄土(西方極楽浄土)へ生まれようと望み、(自ら為した)あらゆる善き行いを往生の為にこそ振り向ける事を「廻向心」と呼ぶのである。
以上のように、(往生を)願う心に嘘偽りがなく、心の底から往生したいと思えば、おのずと(往生の条件とされる)三心が備わってくるのである。
善導大師は三心こそが往生を遂げるための正因であるとし、この三心を具足した称名念仏を勧めた。三心とは一言で言えば「まことの心」であるが、心から阿弥陀仏を信じ、その浄土への往生を願い、常に心がそこから離れないことが求められる。
しかしながら私たちは紛うかたなき凡夫である。常に心が動じ、留まる事を知らず、「凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし。たとえば猿猴(サル)の、枝につたうがごとし。まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし」と表現される。
そんな私たちにとり、心を常に弥陀如来に寄せ、極楽往生を願う心を持続する事がいかに困難であるか。
法然上人は善導大師の心を汲み、そして仏の慈悲心を受け止めて、こう結論するのである。
難しく考える必要はない、念仏を称え続ければ、必ずまことの心である三心が自ずと具わってくるのだと。
合掌
和尚のひとりごとNo169「地蔵菩薩」
インドの言葉でKṣitigarbha(クシティガルバ)と言います。この言葉を訳せば「大地の子宮」、つまり母親の胎内が新たな生命を生み出すように、新しいものを生み出す豊かな可能性を秘めている存在という意味です。また、大地のように広大な慈悲心を持つ菩薩であるとも言われます。
地蔵菩薩は仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなったあと、遠い未来に世に現われる弥勒菩薩が出世するまでの期間、つまり仏さまが不在であり世が徐々に乱れていく世界に現われて、六道に苦しむ衆生に教えを説き、進むべき道を指し示す菩薩さまです。末法とも呼ばれるこの乱れゆく世界とは、実は私たちが住む娑婆世界のことを差します。仏さまに教えを頂きたくとも、すでに釈迦仏はこの世にはおらず、苦しみから抜け出し心の平安を得るにはどうすればよいか、常に迷っている私たちの味方となってくれるのが地蔵菩薩です。
浄土の御教えでは阿弥陀如来が誓われたお念仏の力で、苦しみのない西方極楽浄土に往生できることを説きます。極楽には阿弥陀さまがいらっしゃって、今この瞬間も法を説いて下さっている。しかしながら私たちには簡単にはまみえることは出来ません。そこで、この娑婆世界のみならず六道と言われる苦しみ多い境涯に自ら赴いて導いて下さるのが地蔵菩薩だいう訳です。
ところで私たちにとって地蔵菩薩といえば、やはり路傍の六地蔵さまが思い出されます。皆さまご存知のように子供の守り仏として広く信仰を集め、関西地方では毎年秋口に地蔵盆が行われます。そういう意味でも一番身近な菩薩さまが地蔵菩薩だと言えるかもしれませんね。
合掌
和尚のひとりごとNo168「まごころのおすそわけ」
ある海にとても綺麗な一匹の魚が住んでいました。その魚の鱗(うろこ)は青に緑に紫にキラキラと光っていて、海の中で一番美しく輝いていました。この綺麗に光り輝く鱗を持つ魚は他の魚たちから“にじうお”と呼ばれていました。“にじうお”は自慢の鱗を光り輝かせながらいつも得意げにスイスイと泳いでいました。
他の魚が「一緒に遊ぼうよ」と声をかけてきても見向きもしません。小さな魚が「綺麗な鱗をたくさん持っているんだから一枚分けてくれないか」とお願いをしても、「一体何様のつもりだ!」と一喝するのでした。そんな態度の“にじうお”を見て、他の魚たちは“にじうお”に近づかなくなっていきました。やがて“にじうお”は自慢の綺麗な鱗を誰にも見てもらえなくなり、寂しい思いをする日々が続きました。そこで“にじうお”は、「どうしたら寂しい思いをせずに幸せに過ごせるのか?」と思い悩み、賢いタコのおばさんに相談しました。タコのおばさんは、「その綺麗な鱗を皆に分けてあげたらいいのよ」と言いました。“にじうお”は、「自慢の鱗が無くなるのにどうして幸せになれるのか?」と思いました。けれどもタコのおばさんの言う様に、他の魚のお願いを聞き入れて鱗を分けてあげる事にしました。すると綺麗な鱗をもらった魚はとても嬉しそうに喜びました。その様子を見た“にじうお”は何だか嬉しい気持ちになりました。さらに鱗をもらいに来た別の魚たちにも少しずつ分けてあげました。“にじうお”の自慢の鱗は少しだけになってしまいましたが、心は嬉しくなり皆と楽しく暮らしました。(『にじいろのさかな』マーカス・フィスター著)
人は自分のものとして手に入れると手放したくなくなる気持ちが生じます。仏教では慳貪(けんどん)といって、自分だけの利益を追求し、他人に施す事のない惜しむ心を言います。所有する事で他人より優位に立っている気持ちになれるので所有欲が起こるのです。しかし、その様な心の人は、ただ蓄財するだけの心に囚われてしまい、他人の事を考える事もしなくなると戒められております。多くのものを持っていても独り占めをするのでは疎まれてしまい、やがて孤立してしまいます。金銭的なものにかかわらず技術や能力といったものも他の人にそれを分け与え、教えていく事で多くの仲間を得、更により良いものが生まれてくるものです。生まれ持った能力は人それぞれ違います。得手、不得手はあるものです。自身の恵まれたものを他者に分け与える喜びを知り、外面的な美しさよりも内面的な心の美しさを育てさせていただきましょう。