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和尚のひとりごとNo135「極楽浄土に思いを馳せる」
浄土宗が拠り所としている経典に三つ有り、それを浄土三部経と言います。『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三つです。そのうち『観無量寿経』には、阿弥陀仏や極楽浄土を観想するという方法が説かれています。阿弥陀様や西方極楽浄土に想いを寄せて、心の中に阿弥陀様そして仏様の居られるお浄土の様子を思い描いていくという方法です。これらは心を静めて極楽往生を願う修行方法であり、我々にはなかなか修め難い観想念仏と言われるものです。しかし、時には仏様や極楽浄土に思いを馳せる事の必要も伝えられています。お念仏は心静かにお称えする必要はありません。いつでも、どこでも、どの様な心の状態であっても、ただ「南無阿弥陀佛」とお称えするのが浄土宗の宗義であります。では何故、観想念仏という修行方法もあるのでしょうか。
法然上人は三昧発得(さんまいほっとく)したお方です。三昧発得とは、お念仏を称えている時、求めずして自ずから阿弥陀様や極楽世界を目の当たりにし、崇高な宗教体験をする事であります。つまり法然上人はこの世に於いて、実際に阿弥陀様に出逢われたという事です。しかし時代を経た後々の人々には信じ難く、我々には体験出来ないものでありましょう。
では、実際に仏様を目の当たりにされた方と、そうでない方では、お念仏の伝え方にどの様な違いがあるでしょうか。何事においても実際に見られた事のあるものならば、確信をもって「居る。有る」としっかり説かれるでしょうが、見た事のないものになると「恐らく居ると思う。有ると思う」と不確かな断定表現になるものです。三昧発得された法然上人にお出会いして、直接お念仏の御教えを聞かれた方と、法然上人から時代を経た人々から伝え聞くお念仏の教えにも違いが出てくるものです。それは実際に仏様に出逢われた方から聞く教えと、そうでない方から間接的に聞く教えの差異でもあります。
この世において私たちは阿弥陀様には出逢えないのでしょうか。今まさに出逢うという事は不可能に近くても、お寺に参って御本尊様をしっかりと拝んで頂く事は出来ます。或いは、お仏壇の仏様のお姿を見てお念仏する事も出来ます。その事によって心の中に阿弥陀様を思い描き易くなります。また御影を拝して亡き人のお姿を思い出し、お浄土へ思いを馳せる事も出来ます。いつでもどこでもお称え出来る易しい往生行でありますが、時には阿弥陀様や亡き人、御先祖様や、先に往かれた方々の居られる極楽浄土に思いを馳せてお念仏申してみましょう。お念仏の御教えを説かれたお釈迦様と、三昧発得された法然上人。極楽浄土に思いを馳せてお念仏申すという、観想念仏につながる御教えを説かれた所以がその辺りにある事もお分かり頂けると思います。