和尚のひとりごとNo146「水に源あり 樹に根あり」
アメリカの某州立大学で生物学者が面白い実験をしました。砂を入れた小さな四角い箱の中で、水を与えながら一粒のライ麦を育てます。四ヶ月後に砂をふるい落とし、ライ麦の根がどれ位張り巡らされているかを計測しました。その結果、根毛や顕微鏡でしか見えない根の最細部をも含めると、何と一万一千二百キロメートルの長さになっていたというのです。風にそよぐ一本のライ麦がその貧弱な体を支える為に、やがて実を結ぶ為に一万キロメートル以上もの根を隅々に張り巡らせて、必死で水分や養分を吸い上げていたのです。ではこのライ麦に比べて数十年も生きていく、我々人間の命を支えているものは一体何なのでしょうか。私達人間が生きていく為には、食べ物は勿論、空気や水、太陽の光など肉体を支える為のものが必要です。また人間は精神を持った存在ですから、希望、信念、勇気や愛情といった心を支えるものも必要です。そしてまた、長い人生の中で無常観や無力さを知った時には、しっかりとした宗教というものも必要になります。
肉体は父母から戴いた身体であります。中国浄土教の祖であります善導大師が書かれた『観無量寿経疏』序文義に「すでに身を受けんと欲するに、自らの業識(ごっしき)を持って内因(ないいん)となし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となして因縁和合(いんねんわごう)するが故にこの身あり」と説かれています。業識とは母体に宿る人間の主体となるもので、業(行為)によって生じる識(物事を識別する事の出来る心の働き)です。つまり父と母の肉体的な縁があって、その和合によって前の世からの自らの業(行為)による個別の意識が内に宿ると説かれるのです。この業識が次の世に生まれ変わっていくとされております。兎にも角にも父母の肉体がなければ今の自分は存在しない事になります。ですから先の善導大師の書物には「この義をもっての故に父母の恩重し」と説かれます。更に父母にも又その父母が居られます。遡れば多くのご先祖様がしっかりと生きてくださったからこそ今の自分が居る事になるのです。
今日の幸せ先祖のおかげ 尊い命大切に
咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ
肉体はいずれ無くなります。今この世における人間の寿命というものは限られているからです。しかし命尽きたらそれで全て終わりではなく、南無阿弥陀佛とお念仏をお称えしたならば、命尽きた後、阿弥陀様にお迎えに来ていただいて必ず西方極楽浄土に往生させていただけるというのがお念仏の御教えです。お念仏を申すという行為が蓄積され、それが業識となり次の世、西方極楽浄土に参らせていただくのです。冬になると枯れてしまう植物ですが、実は大地に根を下ろし、コツコツと何万メートルという細い根を張り巡らせて実を付ける為の準備をしています。私達も命尽きた後には、お浄土に往生させていただくというその実を結ぶ為に、植物がしっかりとした根を張り巡らせているが如く、日々共々に南無阿弥陀佛のお念仏の功徳(くどく)を積ませていただきましょう。