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法然上人御法語第三
第3 聖浄二門(しょうじょうにもん)
~わたくしが偉いのではない。
わたくしのちからで念仏が尊いわけでは決してない…
【原文】
或る人、「上人の申(もう)させ給(たま)う御念佛(おねんぶつ)は、念々ごとに佛の御心(みこころ)に適(かな)い候(そうろ)うらん」など申しけるを、「いかなれば」と上人返し問われければ、
「智者(ちしゃ)にておわしませば、名号(みょうごう)の功徳をも詳しく知ろしめし、本願(ほんがん)の様(さま)をも明らかに御心得(おんこころえ)ある故に」と申しけるとき、
「汝本願を信ずる事、まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水汲む類(たぐい)ごときの者の、内下(ないげ)ともにかけて一文不通(いちもんふつう)なるが、称(とな)うれば必ず生まると信じて、真実に願いて、常に念佛申すを最上の機(き)とす。
もし智恵をもちて生死(しょうじ)を離るべくば、源空(げんくう)いかでか彼(か)の聖道門(しょうどうもん)を捨てて、此(こ)の浄土門(じょうどもん)に趣(おもむく)べきや。聖道門の修行は、智恵を極めて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴(ぐち)に還りて極楽に生まると知るべし」とぞ仰(おお)せられける。
☆出典 『勅伝』巻二十一、「信空上人伝説の詞」(昭法全六七一頁)
【ことばの説明】
聖浄二門(しょうじょうにもん)
浄土宗では、全ての仏教を聖道門と浄土門の2つに大別する。この2つの道を聖浄二門と呼ぶ。
本文にもあるように、「聖道門」とは智慧を極めることで迷いを離れる道であり、「浄土門」とは自分自身の愚かさを自覚し、仏の本願の力を頼って極楽浄土への往生を目指す道である。
前者は、この現世において自力の修行で菩提(覚り)を得ようとするが、後者では、まずは仏の設えた仏国土である西方浄土への往生を果たし、修行に適した安楽なその国土で修行を完成させて菩提を得る事を最終目的としている。
智者
文字通り「知恵のある者」。
ここでは法然上人が、当時の最高学府であり権威の象徴でもあった比叡山や、南都の諸寺にて学問研究を重ね、学僧として誉高かった点を言っているのであろう。
名号(みょうごう)
阿弥陀仏の名前のこと。
本願(ほんがん)
ことばの意味は、サンスクリットでpūrva-praṇidhāna、つまり「(時間的に)以前の誓願」、転じて「仏が仏になる以前(つまり修行時代)にたてた誓願」を意味する。阿弥陀仏がまだ仏となる前の修行時代、法蔵と呼ばれる出家者だった時に「これらの誓いが完成しない限り仏とはなるまい」として誓った四十八願が「本願」の代表的なものである。
浄土宗で最も重視するのは四十八願中の第十八願で「念仏往生願」と呼ばれる。
それは「わたくし(法蔵)が仏となる際に、あらゆる世界の衆生が心から信じてわたくしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏を試みて、それでももし生まれることが出来ないようであれば、決して仏とはならない」という内容で、法蔵が既に仏となり西方浄土におられるならば、既にこれらの誓いが成就していることを意味する。すなわち、念仏による極楽浄土への往生が約束されたものとして、既に私たちに示されているのである。
一文不通(いちもんふつう)
ただ一つの文字の読み書きさえも出来ないこと。
愚痴(ぐち)
サンスクリット語のモーハ(moha)の訳語であり、一説には「バカ」の語源となったと言われる。
一言で言えば「愚かなこと」「心の迷いのせいで真実の姿が見えず、適確な判断が下せない状態」を意味する。
仏教では、この愚痴に貪欲(むさぼり)と瞋恚(怒り)を加えた三毒を最も根本的な三つの煩悩として数える。覚りを得て迷いを離れるには、この克服し難き三毒を克服しなければならないとされていた。
【現代語訳】
あるとき、ある人が法然上人に申し上げた。
「法然上人が称(とな)えられている念仏は、その一念一念、一回一回ごとが、阿弥陀仏のご意向にぴったりと合った、まさに仏の本意に即したものなのでしょう」と。
上人は「どういう理由で(そのように申すのか)?」と、反問された。
問うた人が答えるには、
「(法然上人は)智慧深い方でいらっしゃるので、お称えする仏の名号(”南無阿弥陀佛”の6文字)に具わっているとされる優れた徳性や、仏が誓われた本願(誓い)についても、一般の人よりは遥かに深い理解に達しておられると考えるからです」と答えた。
それに対して法然上人は次のように仰った。
「あなたの本願への信頼はその程度だったのか?
(たとえば)木を切ることを生業(なりわい)とする人や、草を刈ることを生業とする人や、野菜を摘み取り、水を汲むことだけを生業とするような人々、このような学問を必要とせず、智慧とは縁遠いと思われている人々であったり、仏典やそれ以外の書物についても何一つ知らない人がいるとしよう。
阿弥陀如来の本願である名号というものは、
もしそのような人が<称えさえすれば、必ず浄土に生まれることが出来るんだ>と信じて、心の底から願い常に念仏を口に称えるとすれば、そうした人々こそを救済の対象として選ぶものなのだ。
さらにもし、(あなたの言う)智慧によって、生まれ変わりを繰り返すこの迷いの境遇から離れることが出来るとすれば、わたくし源空が、どうしてあの聖道門を捨てて、この浄土門に絶対の信頼を置き、その道に従ったというのか?(もし、智慧によって迷いの境遇から離れられるならば、わざわざ聖道門を捨てる必要はあるまい)
(わたくしが捨てた)聖道門の修行は、智慧を極めることで迷いを離れる道である。
一方の浄土門の修行は、常に迷っている愚かな自分に立ち返り、まさにその地点から、対極にあるところの極楽浄土に生まれ変わる(往生する)道である。
このことを理解しなさい」
当時の一般仏教である「聖道門」を知り尽くした法然上人が、それとの対比として、新たな「浄土門」を鮮やかに切り出してくる一文である。
聖道門はその名の通り「聖者の道」、つまり自らの力を信じ頼って、この世で修行を完成して仏と成ることを目指すあり方である。それに対して他者である仏の本願の力を信じ頼って、この世での覚りではなく西方浄土への往生を目指す浄土門とは、覚り(仏となること)という最終目的は一緒でも、その方法論がまるで異なっている。
しかしながらさらに重要な点は、ここでの法然上人が、自分自身が「愚者」であり「智者」ではないことに拘っている点かも知れない。
法然上人に投げかけられる問いには、既に「智者の念仏」と「一般人の念仏」に区別を設けようとする意図が見受けられる。それは法然浄土教の教えに確かに内在している平等主義に反するものであろう。そう、法然上人の説く浄土教は、過激なまでの平等主義に発展する素地がある。何故なら、地上の世俗的な身分、貧富の差、境遇の違い、あらゆる差別が、「愚者の自覚」という一点において無効化されてしまうからである。
あたかも釈尊の教えにあった「諸行無常(全ての事象は変化し、過ぎ去るものである)」や「一切皆苦(畢竟するところ、この世で生を受け、それを全うするまでの経験は、苦悩である)」という思想が、原則的には全ての人が逃れることのできない様相であったが故に、カーストを無効化する思想的原理となりえたように。
だれでも(たとえ国王でも、大富豪でも、出家者でも、貧者でも、病者でも…)過ぎ去る事象に翻弄され、四苦八苦に代表される苦悩から逃れることは出来ない。
ともあれ、時にはこうした質問を受けることもあったのであろう。法然上人は、相手のことばと意図を即座に読み取り、それぞれに最も適切な回答ができる巧みな話者だったであろう事が伺える一文である。
合掌
和尚のひとりごとNo150「快慶」
今回は快慶についてです。
快慶と言えば、和尚のひとりごとNo123「運慶」ともに東大寺南大門の仁王像の製作者として一度は、耳にしたことがあると思いますが、その生涯はしられておらず、生没年すら不明です。
運慶の父親である仏師康慶(こうけい)の弟子(運慶とは兄弟弟子)ですが、いくつの時から弟子入りしたのかは、わかっておりませんが、1189年ごろには仏師として活動されていたようです。近年、見つかった資料により、1227年8月以前に亡くなっていることが分かっているぐらいです。
快慶は浄土教の熱心に信仰し、東大寺復興の責任者であった重源(ちょうげん)の教えをうけ、重源より「アン阿弥陀佛(アンは梵字です)」の名前を授かり、以後自分の携わった仏像には、「アン阿弥陀佛」の銘を彫っています。
重源は、阿弥陀様さまを深く信仰し、自らを「南無阿弥陀佛」と称し、自分の教えを受けたものに「〇阿弥陀佛」という名(阿弥陀佛号)を送っていました。
快慶は多くの阿弥陀如来像を製作し、90cm前後の大きさで、端正な表情 穏やかな着衣形式 精緻な文様 来迎印(阿弥陀さまが往生人を迎えるときに両手で結んでいる印)を結んでいる立ち姿で、「アン阿弥陀佛」号にちなんで「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれました。
「安阿弥様」の様式は後世(私たち見かける多くの阿弥陀如来像のお姿)に大きな影響を与えたといわれています。
和尚のひとりごとNo149「寒さ越え 山笑うころ 春彼岸」
春山の草木が一斉に芽吹き出し、山全体が明るく感じられる様になり始めました。春になるとどことなく山が笑っている。そんな様子を感じると気分も明るくなり、心が浮き立つ心持ちになります。木々が芽吹いてくると、虫や動物たちもゾロゾロと動き出し始めます。野山が益々賑やかになり、あちらこちらから鳥たちの鳴き声も聞こえて参ります。
山鳥のホロホロと鳴く声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う(行基菩薩)
山鳥がホロホロと鳴く声を聞いた時、もしかするとその山鳥の声は遠く離れている父が呼ぶ声か、或いは母が呼ぶ声か。その様に遠く離れた人に想いを寄せていただくと、何とも言えない懐かしい気持ちになるものです。この歌を詠まれたとされている行基菩薩は奈良時代に活躍された僧侶で、近畿地方を中心に貧民救済や治水、架橋など社会事業、社会福祉事業を熱心に行いました。今でも行基菩薩が造ったとされる溜め池や橋、お堀などが各地に遺っており、今日でもその場所に住む人々の生活には必要不可欠なものとなっております。
大阪市東住吉区に「行基大橋」という行基菩薩が造ったとされる橋があります。大和川を渡る国道26号線上の四車線ある立派な橋です。しかし行基菩薩が架けたという史実はなく、そもそも現在の道が出来たのは江戸時代中期以降で行基菩薩の居られた時代には道すら無かったとされております。昭和になってから最寄りのバス停は「矢田行基大橋」と名付けられ、近くの郵便局は「東住吉行基橋局」と、近年になってから行基菩薩を偲ぶ地名が付けられているそうです。地元には「行基菩薩安住之地」という石碑があり、また古くは「行基池」という溜め池があった為、近辺に行基菩薩の地名をこぞって付けたと言われています。何はともあれ、行基菩薩の弟子や孫弟子の働きが行基菩薩の功績に転じたのでしょう。橋が無ければ向こう岸へは渡れない。何とかして向こう岸に渡りたい。その地域に住む人々の願いを適えるべく立派な橋を架けられた。そこには菩薩と尊称されるお方の慈悲の心があり、何の見返りも利権も求めない、ひたむきに尽力された姿が伺われます。
今住む世界を「此岸(しがん)」と言い、仏様の在します世界を「彼岸(ひがん)」と頂戴します。亡き人の居られる彼岸に往くには、その国土を創られた阿弥陀様の名前を呼ぶだけです。南無阿弥陀佛とお念仏を申し、阿弥陀様の御力、他力によって向こう岸へ渡らせていただけるのであります。この世で縁あった方とまた会える、今は向こう岸から見てくださっている。その想いを春に鳴く山鳥に馳せ、日々共々にお念仏申して過ごして参りましょう。