和尚のひとりごとNo152「新たな出会い よき縁に」

人生は縁であり、縁に始まり縁によって終わると言います。「袖触り合うも多生(たしょう)の縁」という諺(ことわざ)があります。「多生」とは仏教語で、生まれ変わり死に変わり、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしてという意味で、前世からの縁という事です。前の世からの縁として「宿縁(しゅくえん)」という言葉もあります。宿とは以前からのという意味です。ですから「宿縁」とは前の世からの御縁です。サッと袖が触れ合っただけというのも前の世からの縁による。また一樹の陰に宿るも、一河の水、河の水を汲ませて戴くのも御縁です。夏の暑い日に一本の樹の下の陰で休ませていただくのも、或いは又、河の水を掬い取って飲ませていただくのも御縁です。

 四月は入学式や入社式などがあり、新たな出会いや御縁に巡り合う人も多い季節です。自分で選択した19sigatu道であっても自分の都合の良い事ばかりではありません。気に入らない事や辛い事もあり、辛抱して色々な試練に打ち勝って世間の荒波を乗り越えていかねばならないのがこの世です。お釈迦様はこの人間世界を忍土(にんど)と示されました。辛い事や苦しい事に巡り合っても耐え忍んでいかなければならない世界であると説かれたのです。しかし忍土である人間世界であっても人間として生まれた事は宿縁による有り難いものであるとお釈迦様は説かれます。お釈迦様はある時に、大地の砂を掴んで「この手の中の砂の数と大地の砂の数とではどちらが多いか」と弟子に尋ねられました。「はるかに手の中の砂の方が少ないです」と弟子が答えると「その通りである。この数え尽くす事の出来ない大地の砂というのは、この世に命恵まれたものの数。その中で尊くも今、人間として生まれる事の出来た者は僅かこの一握りの砂の数である」そして今度は、この手の中の砂をもう片方の親指の爪の上にパラパラとかけていかれました。その殆どは大地へ落ちてしまいましたが極僅かだけ爪の上に残りました。「せっかく人間としての命をいただいても、無駄に過ごしてしまう者もいる。しかし正しい信仰に出遇い、その道を歩む事の出来た者はこの僅かに残った爪の上の砂の数である」とおっしゃられました。正しい信仰の道とは浄土宗では南無阿弥陀佛のお念仏です。辛く苦しみがある忍土であっても阿弥陀様やご先祖様が見守ってくださっている。その様にお受け取りいただき、お念仏の御縁に今、出遇わせていただいた事を共々に喜ばせていただき、日々お念仏を申して過ごして参りましょう。