和尚のひとりごとNo154「大本山増上寺と日光東照宮 」

浄土宗大本山の一つである増上寺の歴史をひも解くと、もとは弘法大師空海の弟子であった宗叡(しゅうえい)が建立した真言宗の古刹光明寺(こさつ こうみょうじ)を、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人が念仏道場にしたことに始まります。爾来、室町時代の開山から戦国時代さらには江戸時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展してきました。

そうした中、浄土宗にとりましても大きな出来事が起きます。東国に江戸幕府を開こうとしていた徳川家康の帰依を受けるようになったことです。それは家康公が関東の地を治めるようになってから間もなくのこと。やがて増上寺は徳川家の菩提寺(のちに勅願所ちょくがんしょ)となり、1598年(慶長三年)には現在の地(芝)に移転しました。のちには関東十八檀林(僧侶の学問所・養成所)の筆頭として、常時三千人を越す僧侶が学ぶ道場となりました。 zoujyouji

 

そんな増上寺ですが、実は江戸の都市設計上、ある重要な役割を担わされていいたと言われています。当寺の江戸は鎌倉や小田原に比べるとまだまだ未開発の地、港沿いの湿地帯の背後に武蔵野の原野が広がっているような土地柄だったと言われます。そんな中での新たな都市計画です。江戸の街づくりの基本理念は徳川家のブレーン天海僧正によるものです。天海は江戸を京の都、平安京にみたて、鬼門にあたる北東の方角に東叡山寛永寺(東の比叡山です)を配し自ら住職として守り、そこから江戸本丸(江戸城)を挟んで一直線で結ばれる先に増上寺を配しました。つまり増上寺は西南の裏鬼門に位置します。鬼門・裏鬼門は鬼(悪しきもの)が侵入する入り口だというのが古来よりの言い慣わしであります。両寺院が江戸という小さな都市国家を守護する役目を担っていた訳ですね。やがて両寺院には家康公を祀る東照宮が勧請されました。さらにそのラインを反対に江戸の北方面に伸ばしてくと日光東照宮に行きつくともいわれます。地図を眺めて線を引いてみると確かにgobyou

 

 

 

日光東照宮は、東照大権現(江戸城の守護神)として家康公を祀る場所、また北という方角には北極星が鎮座し、その北に位置する東照宮を拝することは、北極星すなわち天帝を拝することでもあると言われました。家康公を天帝と同一視しようとしたのではないでしょうか? 残念ながら増上寺の大塔伽藍に往時の面影を伝えるものは少ないですが、日光東照宮は世界遺産にも登録されています。

 

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都市や町は歴史を持ち、それは人の記憶と似ています。また様々な意図や思惑が込められていることもあるようです。それを探ることも興味深いですね。

合掌