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法然上人御法語第六
~因果を超えて~
【原文】
酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、大慈大悲の御心の内に思惟して、年序そらに積もりて、星霜五劫(せいそうごこう)に及べり。然るに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を廻(めぐ)らして思惟し給えり。
然(しか)も、「我れ別願をもて浄土に居(こ)して、薄地低下(はくじていげ)の衆生を引導(いんどう)すべし。その衆生の業力(ごうりき)によりて生まるるといわば、難(かた)かるべし。
我れ須(すべから)く衆生のために永劫(ようごう)の修行を送り、僧祇(そうぎ)の苦行を廻(めぐ)らして、万行万善(まんぎょうまんぜん)の果徳円満(かとくえんまん)し、自覚覚他(じかくかくた)の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せん所の、万徳無漏(まんとくむろ)の一切の功徳をもて、我が名号として、衆生に称えしめん。衆生もし此(こ)れに於(お)いて信を致して称念せば、我が願に応えて生まるる事を得(う)べし。『勅伝 第三十二』
【ことばの説明】
酬因感果(しゅういんかんか)
原因となる行為がもたらした結果としての果報を得ること。ここでは修行という因(原因)が成仏という果(結果)をもたらすことを意味している。
五劫(ごこう)
「劫」とは極めて長い時間のこと。 サンスクリット語のkalpa(カルパ)の音を写した「劫波(劫簸)」を省略した表現。
一つの宇宙(世界)の誕生(始まり)から消滅(終わり)までの1サイクルを指し、ブラフマー神(梵天)という神にとっての一日に等しいという。仏典において具体的な数値は示されないが、よく引かれる譬喩(『雑阿含経』あるいは『大智度論』)によれば下記の通り。
「一返が一由旬(いちゆじゅん 四十里=約157キロ)に及ぶ巨大な岩を、100年に一度だけ布で撫で、その結果としてようやく岩がすり減ってなくなってしまうまでの長い期間を経ても、実はまだ劫には及ばない(劫はそれほど長い期間である)」(磐石劫 ばんじゃくこう)、
あるいは「四方四十里の城を芥子粒(けしつぶ)で満たし、その後100年に一度、その芥子粒を一粒づつ取り出していき、最終的に全ての芥子粒がなくなってもまだ劫には及ばない」(芥子劫)。
一つの劫(一大劫)を時間的経過によって分類する場合は、世界の生成(成劫 じょうこう)、存続(住劫 じゅうこう)、破壊(壊劫 えこう)、消滅後の世界が存在しない状態(空劫 くうこう)の4段階で考える。
法蔵菩薩が四十八願を立てる為の思惟に「五劫」を要したことは『無量寿経』に説かれている。
善巧方便(ぜんぎょうほうべん)
サンスクリット語ではupāyakauśalya(ウパーヤカウシャリヤ)といい、巧みな手立て(方法、手段)のこと。仏が衆生を救済し導くに当たり、衆生側の機根(素質、性格、置かれている状況)に応じて最適な手段を講じること。
別願
諸仏・菩薩に共通する「総願」に対して、「別願」とは諸仏・菩薩が各々の立場より起こす個別の誓願のこと。
「総願」は四弘誓願(しぐせいがん)ともいい、大乗の菩薩が初発心時に必ず立てなければならない四つの誓いで、
- すべての衆生を救うこと(度)、②すべての煩悩を断つこと(断)、③すべての教えを学ぶ
- こと(知)、④この上ない悟りを得ること(証)をその内容とする。
阿弥陀仏の別願は四十八願である。「今この四十八願は、これ弥陀の別願なり」(法然『選択集』)。
業力(ごうりき)
業の力、すなわち果報を生じさせる原因となる業の働きのこと。業(karman カルマン)のもとの意味は「行為、行い、活動」、何らかの意志的な行為は、必ず一定の結果を行為の主体にもたらすとされ、そこに見いだされる法則性が「善因楽果(ぜんいんらっか)、悪因苦果(あくいんくか)」ということになる。善き行いは必ず心身に楽をもたらし、反対に悪なる行為は心身に苦をもたらす。
僧祇(そうぎ)
「阿僧祇(あそうぎ)」の略。阿僧祇は原語 asaṁkhya(アサンキャ 数えられない)から、つまり「数えきれない、無量の、無数の」を意味する。
果徳
修行の結果として自ずから得られる徳(よい性質、利益)のこと。
自覚覚他(じかくかくた)の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)
「自覚」は自ら覚悟(さとり)を獲得すること、「覚他」は他者(衆生)をして自らと同じさとりの境地に導く(成仏させる)こと。
「覚行窮満」は、自ら覚り他を覚らせる、この両者を満たすことにより、はじめて「覚行」は完成し菩薩は仏となることができることを意味する。
「自覚覚他覚行窮満せる之を名づけて仏と為す」(善導『観経疏』「玄義分」)。
【現代語訳】
(弥陀の前身、法蔵菩薩は)(衆生が)修行を行うことを原因として、それに応じた果報を得るということ(因果応報の道理)について、大いなる慈悲の御心にて熟考を重ねるうち、いつしか年月が積み重なり、過ぎ去った歳月は五劫にも及んだ。それでもなお(衆生を導く為の)巧みな手立てについて考え続けた。
(そうして考え続けた)その上に、「わたくし(法蔵)は、別願(という特別な願)を立てて浄土に住み、修行をしたがまだ高みに達していない人々を導き入れよう。(ただし、そうしたところで)人々自身の行い(修行)がもたらす果報として、浄土に生まれさせることは(因果の道理に従えば)難しいだろう。
(それならば)わたくしは是が非でも人々のために、限りなく長い修行生活を厭わず、また果てしなく長い期間の苦行を企て、多くの修行と善き行いの結果として得られる徳を完全に満たし、わたくしがさとるだけではなく、人々をしてわたくしと同等のさとりの境地に導くことで覚りに向かう修行をも完成させ、そうした結果として(わたくしに)備わる、悟りの障害となる煩悩のけがれのない全ての功徳をわたくし自身の名号とし、人々に称えさせよう。人々がもしこれを深く信じて、称名念仏を行うならば、わたくしの願いに応じて(人々はわたくしの作った極楽浄土に)生まれることができるであろう」
仏教では因果応報が大原則であった。自らの責任において為した行いの報いは、必ず受け取らなければならない(自業自得)。そして大きな果報である「仏のさとり」や「仏国土への往生」を果たすためには、それに見合うだけの厳しい修行や、善き行いを積み重ねなければならない。
さらにここでは、「衆生の業力(ごうりき)によりて生まるるといわば、難(かた)かるべし」と言われる。濁世に生き、煩悩による造罪を重ねる衆生自身の行いによっては、浄土への往生を果たすことは誠に難しいというのである。ではどうすればよいのか?
そこで仏によって示されるのが全ての功徳が込められた「南無阿弥陀仏」の名号である。
深く信じ、その名号を称えれば、必ず往生を遂げられる。
仏の大慈悲に基づき、信心と称名こそが往生の要行であることを述べた法語である。
合掌
No160和尚のひとりごと「びんずるさん」
わが国でも昔から馴染み深い「びんずるさん」について紹介します。 十六羅漢の第一に数えられる賓頭盧(びんずる)尊者、名前を聞いたことはあってもという方も多いかもしれません。 詳しくは、名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャと言い、バラモンの家系に生を受けお釈迦さまに弟子入りした方です。 神通力に優れた能力を発揮しましたが、あまりに勝れていたため、お釈迦さまから軽々しく神通を示現することたしなめられたこともありました。また非常に聡明であり、説法が他の異論や反論を一切許さないほどであったことから、”獅子吼(ししく)第一”ライオンの如くとも称されたそうです。まさに独り勝ちといった感じです。
その賓頭盧尊者ですが、お釈迦さまより重大な使命を授かります。つまり自分(お釈迦さま)が亡くなったのちの世において、お釈迦さまに代わり衆生を済度せしめ、末世の人々が供養するに値する存在として頑張るようにというわけです。そこで賓頭盧尊者はあえて涅槃に入らず、西方の土地で教えを説き続けたと言われます。 その姿は”白髪長眉の相”つまり白く長い眉毛が特徴です。今では身体の不調を感じたとき、賓頭盧像のお身体のその箇所を撫でれば快癒(かいゆ)する「撫で仏(なでぼとけ)」として信仰を集めています。元々はお寺の食堂(じきどう)に祀られていたそうですが、いつの間にか私たちに身近な外陣や回廊の降りてこられた羅漢さまです。皆さまも機会があれば是非お参りください。
和尚のひとりごとNo159「ひとつ ひとつ いのち輝く」
中国においてお念仏の御教えを弘められた善導大師(613〜681)の書かれた『往生礼讃(おうじょうらいさん)』という書物の中に「日中無常の偈」というお言葉があります。
人生不精進(にんしょうふしょうじん) 「人生けるとき精進(しょうじん)ならざれば」
喩若樹無根(ゆにゃくじゅむこん) 「喩えば植え樹の根無きがごとし」
採華置日中(さいけちにっちゅう) 「華を採りて日中に置かんに」
能得幾時鮮(のうとくきじせん) 「よく幾ばくの時か鮮やかなる事を得ん」
人命亦如是(にんみょうやくにょぜ) 「人の命も亦是の如し」
無常須臾間(むじょうしゅゆけん) 「無常須臾(しゅゆ)の間なり」
勧諸行道衆(かんしょぎょうどうしゅう) 「諸々の行道衆を勧む」
勤修乃至真(ごんじゅないししん) 「勤修(ごんじゅ)して乃ち真に至りたまえ」
意訳をすると次の様になります。
「人として生きていく上で、自らを磨かぬ者は根の絶えた樹の様なものだ。
華を採り、日なたに置いておいたならば、その美しさはいつまで続くというのか。
我々のこの世の命も同じである。たちまちにして儚く消えるものである。
仏道を歩む者達に勧める。よくお念仏に努め励み、悟りを目指してお浄土に至れ!」
私達はどうかすると怠け心で日暮しをしてしまいます。若い時は色んな事に興味を持ち、目標を立てて、何事に対しても挑戦する気持ちも湧いてくる事でしょう。しかし年齢とともに体力が衰えてくると、気力も落ち、何に対してもやる気が起こらない時も増えてまいります。この世の命は儚い朝露の様なものでアッという間に消えて無くなるものです。この世の事だけに重きを置いて目標を立ててもなかなか夢を叶えられず、夢途絶えると益々気力は衰える一方です。しかし、目に見える今この世だけではなく、命尽きた後も往く世界がある。後の世を思う信仰心がしっかりしていれば、年齢は関係なく命輝き、この世を生ききる事が出来ます。信仰の根をしっかりと生やして、お浄土で花咲かせられる様に日々、共々に南無阿弥陀佛とお念仏を申して過ごして参りましょう。