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法然上人御法語第十壱
~深く信ずることこそが~
【原文】
ただ心の善悪(ぜんなく)をも顧(かえり)みず、罪(つみ)の軽(かろ)き重きをも沙汰(さた)せず、心(こころ)に「往生(おうじょう)せん」と欲(おも)いて、口(くち)に南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と称(とな)えては、声(こえ)につきて決定(けつじょう)往生(おうじょう)の思(おも)いをなすべし。
その決定心(けつじょうしん)によりてすなわち往生(おうじょう)の業(ごう)は定まるなり。かく心得(こころえ)ねば、往生(おうじょう)は不定(ふじょう)なり。往生(おうじょう)は、不定(ふじょう)と思えばやがて不定(ふじょう)なり。一定(いちじょう)と思えば一定(いちじょう)する事にて候(そうろ)うなり。
されば詮(せん)は、ふかく信(しん)ずる心と申し候(そうろ)うは、「南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と申せば、その佛(ほとけ)の誓(ちか)いにて、いかなる身(み)をも嫌わず、一定(いちじょう)迎え給(たま)うぞ」と、深く頼みて、いかなるとがをも顧ず、疑う心(こころ)の少しもなきを申し候うなり。
(勅伝第二十二巻)
【ことばの説明】
沙汰(さた)せず
問題としない、不問に付す。
往生(おうじょう)の業(ごう)は定まるなり
念仏という行為が因となって、往生という果(報い)を生むことが確実である事。これも因果の道理に基づいている。
一定(いちじょう)
間違いなく定まっている。「決定(けつじょう)」に同じ。
【現代語訳】
ひたすら(自らの)心の善悪を振り返って思いめぐらす必要はない。また(自ら犯した)罪の軽き重きなどについても問題とする必要もない。心には「往生したい」との思いを抱き、口では南無阿弥陀佛と称えて、口に出すひとこえひとこえに「必ず往生が叶うのだ」との願いを込めなさい。
その「往生は定まっているのだ」との思いこそが、とりもなおさず(念仏という業の報いとしての)往生を確実なものとするのです。(もし反対に)このように考えないならば、往生は不確かなものとなってしまうでしょう。往生など定まるはずがないと考えれば、その通りに往生は不確かなものとなる。定まると思えば定まるものなのです。
ですから結局は、(この)深く信ずる心(深心)というのは、「南無阿弥陀佛と申しさえすれば、(まさに)その(阿弥陀と名づく)仏の誓いによって、どのような身であっても分け隔てなく、確実に(浄土へ)迎えて下さるのである」、そのように心から頼りとして、(自分自身の犯した)どのような罪科(つみとが)についても改めて思いめぐらすことなく、(往生に対する)疑いの心が微塵もないことを言うのであります。
この法語は「深心」について述べられている。
「深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり」(『大胡の太郎実秀へつかはす御返事(おおごのたろうさねひでへつかわすおへんじ)』)
すなわち往生の為に必要な心構えとして数えられる「三心」のうち、この「深心」は深く信ずる心である。
善導大師の釈によれば次の如くであるという。
「一つには、決定してわが身はこれ煩悩具足せる罪悪生死の凡夫なり、善根はすくなくして、曠劫(こうごう)よりこのかた、つねに流転して出離の縁なし」と信ずることであり、「二つには、かの阿弥陀仏四十八願をもて衆生を摂取し給う。すなわち名号を称する事、下十声一声(しもじっしょういっしょう)にいたるまで、かの願力に乗じて、さだめて往生することを得と信じて、乃至一念も疑う心なき故に深心と名づく(『御消息』)。
つまり「深心」とは、自分自身が煩悩を捨てきれぬ凡夫であり、善き行いも少なく、ついに今まで解脱の機縁に恵まれなかったこと、そして阿弥陀仏の名号を称えることで必ず往生を果たせることを信ずることであると。
さてこの御法語は次の一節で始まる。
「心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず」(心の善悪について振り返り、思いめぐらすことなく、犯してしまった罪の軽重についても問題にすることなく…)
一方、伝統的に仏教は次の言葉で言い表されている。
「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) (『七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)』)。あるいは「一切の罪を犯さぬこと、善に至ること、心を浄化すること」これこそが「ブッダたちの教え(=仏教)」であると表現される(『ダンマパダ』)。一言で言えば「悪をなさず善をなすこと、自らの心を浄らかなものにすること」これこそが仏教であるとされてきたのである。ところが法然上人によれば、これらについて思いめぐらし、問題視することを差し置いても、阿弥陀仏の名を称え、称えながら「必ず往生できる」という思いを抱くことこそが勧められるべきであるという。それは何故か?続く一節によって明らかとなる。
「必ず往生できる」という思いによって念仏往生が確実なものとなると。
法然上人は、必ずしも仏教において大切にされてきた「諸悪莫作・衆善奉行」の原則(自業自得の理)を軽んじ、無視しようとしたのではないだろう。次のような御言葉も残されている。
「いかなる過をも嫌わねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず(『鎌倉二位の禅尼に進ぜられし書(かまくらにいのぜんにへしんぜられししょ)』)。しかし、たとえ如何なる罪科を犯しても分け隔てなく救って下さるとは言え、その教えに乗じて罪を恐れぬ振舞いをしてはいけない。
念仏によって必ず往生できるという思いを持つこと、この最も肝要な信心を確立するにあたり、凡夫にとっては必ずや大きな妨げとなるのはこうした懸念であり、疑いの心である。これこそが往生を不確かなものとする際たる原因となる。疑いの心なき状態、信心の定まった状態であればこそ、必ず往生は定まっている。この点をあらためて示して下さっているのが本法語である。
想うに弥陀の大慈悲は、善悪による報いの連鎖(業報輪廻)から超出できる凡夫にとっては唯一の道を示している、まさにその一点にあるのではないだろうか。
合掌
和尚のひとりごとNo175「五重相傳」
五重相伝(ごじゅうそうでん)は私たちの浄土宗で最も大切な法要の一つであります。
南北朝時代に活躍された浄土宗七祖の聖冏(しょうげい)上人は、当時浄土宗が独立した宗派としては認められていなかった状況を嘆いて、浄土宗に受け継がれてきた宗脈(しゅうみゃく)と戒脈(かいみゃく)とを明らかにし、伝法制度を確立されました。能化(僧侶)たる者は一定の期間(現在では3週間とされています)、大本山知恩院もしくは総本山増上寺にて伝宗伝戒を受ける、加行(けぎょう)と呼ばれるこの道場において受け継ぐものが、まさに釈尊から脈々と受け継がれてきたこの浄土宗の血脈(けちみゃく)であります。
そしてこのうち、教えの真髄である宗脈を在家の信徒の皆さまに授けるのが、結縁五重(けちえんごじゅう)とも呼ばれるこの「五重相伝」となります。
「五重」には、御念仏の教えの最も重要なテーマを、五段階のプロセスを積み重ねて理解して頂くという意味が込められており、参加された皆さまには5日間かけてお念仏の教えの肝要を分かりやすく相伝致します。
無事満行(まんぎょう)されれば、お念仏の教えを確かに受け取った証(あかし)として伝巻(でんかん)つまり血脈(けちみやく)が本山から授与され、正式な仏弟子としてのお名前である誉号(よごう)と呼ばれる戒名が授けられます。
もしかしたら皆さんは、5日間というのは長過ぎると感じられるかも知れません。しかし更に長い一生において僅か5日間の修行によって、お念仏の教えを体得し、その後の人生の心の安らぎを得ることが出来る、更にいえば「必ず往生できる」というお墨付きを頂ける誠に得難い勝縁であるとも言えます。
5日間にわたり勧誡師(かんかいし)のお説教を身体で感じ、一緒に声を合わせて念仏を称える中で、浄土往生へ私たちを導く種が心に宿りそれがやがては必ずや芽吹いていきます。目に見える証とともに、目には見えない心の糧を手にして頂ける、その後の人生を念仏を申す仏教徒として明るく生きてゆく道を開く、それが五重相伝であります。
和尚のひとりごとNo174「称えるなかに仏のまなざし」
烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ
可愛い 可愛いと 烏は啼くの 可愛い 可愛いと 啼くんだよ
山の古巣へ 行て見てご覧 丸い眼をした いい子だよ
『七つの子』は野口雨情という方が作詞された唄です。野口雨情は宗教的な意味合いの深い詩を沢山創られております。この『七つの子』は雛鳥が親の烏を無心に呼んでいる。その声に応えている親ガラスの心情です。
阿弥陀様はこの母鳥が我が子可愛いと思うが如く、いつも私達を見守り慈しんでくださっています。阿弥陀様から見れば全ての人々が大事な我が子です。私達の事を思って守り育ててくださっている。『七つの子』の唄は、まさに親が子を思う心です。
啐啄同時(そったくどうじ)という言葉が御座います。鶏(にわとり)の雛(ひな)が卵から生まれ出ようとする時、殻の中から卵の殻をつついて音を立てる。これを「啐(そつ)」と言います。その時、すかさず親鳥が外から殻を啄んで破る。これを「啄(たく)」と言います。この「啐」と「啄」が同時であって、はじめて殻が破れて雛が生まれます。これを「啐啄同時」と言います。これは鶏に限らず、師匠と弟子、親と子の関係にも学ぶべきであると説かれます。
ある雨の日、禅寺の和尚さんが部屋から、「雨漏りだ!何ぞ持って来い。」と叫ぶ声がした。弟子達が、「また雨漏りだ。早く何か持って行け!」と騒いでいると、一人の弟子が笊(ざる)を持って飛んで行った。すると師匠は、「おう、これだこれだ。よく持ってきた。」と上機嫌で褒めている所へ、もう一人の弟子が桶(おけ)を持って現れました。すると和尚さんは「馬鹿モン!そんな物が役に立つか!」と烈火の如く叱り飛ばされたそうです。普通ならば雨漏りの水を受けるのですから桶です。笊では雨水を受け止める事は出来ません。しかしここは禅寺。雨漏りだからと桶だ笊だと考えて分別(ふんべつ)すると駄目だという事です。師匠が、「直ぐに何か持ってこい。」と言えば、笊でも桶でも何でも構わない。「オーイ」と呼ばれたら直ぐに「ハイ」と答える。そこには何の分別も一分の隙もない、無心の教えを説いているのです。これが「啐啄同時」の意味であります。
阿弥陀様も私達が無心で南無阿弥陀佛と名を呼べば直ぐに応えてくださるのです。阿弥陀様は、「我が名を称えよ。我が名を称えたならばその声に応えて救おう。」とお示し下さいました。これを「応声即現(おうしょうそくげん)」と言います。声に応じて直ぐに現れて下さるのであります。先程の「啐啄同時」で言えば、卵の中から殻を突く音が聞こえたら直ぐに、同時に外から殻を破ってくれる、その親鳥の様に「南無阿弥陀佛」と御称えしたならば、直ぐに応じて下さる仏様です。「お母さん」と言えば大勢の人の中からでも母が私に気づいて下さる。その様に仏様も直ぐに現れて下さるのであります。お念仏を称える中に仏様のまなざしを感じ、日々穏やかに過ごして参りましょう。