和尚のひとりごと「お釈迦さまの気持ちと八万四千の法門」

仏教を開かれたお釈迦さまは、弟子のひとりひとりが独立して、それぞれの個性にあったやり方で道を歩み、最終的に自らの救い(お悟り)にたどり着くことを望みました。決して一方的にただひとつの修行方法を押しつけることはありませんでした。釈迦説法

仏教聖典が何故それほど膨大なのか?
数が多いということは、それだけ多くの人々が仏教とご縁を取り結ぶチャンスを頂けることを意味します。数多くの衆生が、生きていく上での大切な指針をそこから得、救済されていくということであります。

 

歴史上、仏教が辿ってきた道を振り返っても、釈尊の金口(こんく)の説法があり、インドで栄えた出家者の仏教(部派仏教)があり、衆生の救済を第一とする大乗仏教があり、多種多様な姿をもって実を結んだ民衆の信仰がありました。現在の日本でも、そして世界の仏教国を見ても、実にさまざまな形の仏教が存在します。そしてそれぞれが信ずる教えに基づいた正しい実践があり、法燈が守られ続けています。

一見すると相反するようにも感じられる教えも、元を辿れば源には御仏の教えがあるのみ、八万四千の法門の意味は、覚りという頂上は一つでも、そこに至る道は様々であってよいということです。様々な境遇や考え方を持った人々が、それぞれに頂いたご縁に従い、たとえ一足づつでも仏道を歩んでいけば自ずと覚りの境地に近づいて行けるということです。

浄土宗を開かれた法然上人について、大正大学教授 林田 康順 師は「法然上人は「仏説はどれも百点満点」という一代仏教観を終生堅持され」たと述べられています。
教えに優劣はない、否、凡夫である私たちには仏の教えの優劣を決めることなど望むべくもない。しかしながら私たちを励まし、西方浄土へと送り出してくれる釈尊の言葉が確かにあり、その先には慈悲深き阿弥陀如来がおわします。
そして私たちにはお念仏があります。
法然上人は見出された浄土の御教えは、一部の限られた者にしか実践できない厳しい教えではなく、全ての衆生(心ある者)に開かれた教えです。志を持ち、そしてそれが果たされるべく仏の名を呼べば、必ず報われるというものです。

口称念仏は、誰でも、いつでも、どこでも行える仏道修行であります。
これからもお念仏による安心を感じて頂ける日々をお送り頂ければ幸いです。