和尚のひとりごとNo249「凡夫」
私たちにもなじみ深い仏教語として「凡夫(ぼんぶ)」という表現があります。語感から「平凡な人、平均的な人」という意味かと思われるかも知れませんが、本来の意味は「仏教の理解が乏しく、修行実践もおぼつかない、凡庸で愚かな人」のことを指しています。
インドの原典に遡ってみればpṛthag-jana(プリタグジャナ)という言葉にたどり着きます。しばしば衆生や有情(心のある存在)と同じように使われるこの言葉は「異生(いしょう)」と訳されます。
「異生」とは、生来の煩悩に悩まされる私たちの在り様(ありよう)が、人それぞれであることを表わします。欲望の対象をいくら求めても満足出来ない人、生の悩みや苦しみ、あるいは死への恐怖から心の平安を失っている人…それぞれが異なった境遇にありながらも、煩悩に振り回され、迷いのただ中に生きていることに変わりはありません。
さて伝統的には覚りの智慧(仏智)を目指す修行者には、各々到達したレベルに応じた階梯(ステージ)が設定されていました。オーソドックスな考え方では、準備段階を入れた五段階の階梯があり、三つ目の「見道(けんどう)」以降が聖者(しょうじゃ)と呼ばれ、それに達していない修行者が凡夫(外凡 げぼん、内凡 ないぼん)とされていました。
ではその基準はどこにあったのかと言いますと、仏道修行の要(かなめ)であった「三昧(さんまい samādhi サマーディ)の上達具合によります。三昧とは「観法(かんぽう)」のこと、修行の過程においてさまざまな対象を観察し、その意味の理解を深めていく修行法です。
現在まで伝わっている伝承の中で、スリランカ・東南アジアに息づく南伝の伝統では、「諸行」すなわちこの世界の実相を観察するとされ、北伝の伝統では「四諦説(したいせつ)」を観察吟味していくこととされていました。 「四諦」とは仏教の開祖釈尊が菩提樹下で覚った内容とされ、またその最初の説法である初転法輪のときに説かれた際、かつての修行仲間の五比丘はただちに法眼(ほうげん)を得た(覚りを開いた)とも言われている、仏教において最も基本的な法門であります。生・老・病・死に代表される生きていく上での苦悩には、必ずその原因があり、また必ずその苦悩を滅する道があることを、自らの体験に即して語られたものです。
ところで私たちが奉ずる浄土の御教えにおいては、凡夫はどのように捉えられているのでしょうか?一言で言えば、私たち全員が凡夫であると考えます。凡夫とは上に見たように、未だ聖者の段階に達していない者、すなわち「無我」の道理を弁えず、「我=自分という存在」があり、この世の中が思い通りになって欲しいと願っている者のことです。
浄土教の祖師の一人である道綽禅師は、「安楽集」で末法における凡夫が救われる唯一の道として浄土往生の教えを明かし、法然上人が傾倒された善導大師は、「罪悪生死の凡夫(ざいあくしょうじのぼんぶ)」という表現で、今まさに末法に生きる私たちの在り様を示されました。
そこでは凡夫の意味は、末法という仏の教えが滅びゆく世界において、志はあっても仏道修行がままならない能力が劣った私たち自身のこととなります。そのような自らのあり方を真摯に見つめ、心の底から御仏の救いを求める私たちに釈尊が開示された道こそが浄土の御教えなのです。