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和尚のひとりごとNo287「法然上人御法語第二十六」
前篇 第26 光明摂取(こうみょうせっしゅ)
~光明はいつどこにおいても~
【原文】
観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に曰(いわ)く、「一々(いちいち)の光明(こうみょう)、遍(あまね)く十方(じっぽう)の世界を照らして、念仏の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)して捨て給(たま)わず」。これは光明、ただ念仏の衆生を照らして、余(よ)の一切の行人(ぎょうにん)をば照らさずというなり。
但(ただ)し余(よ)の行(ぎょう)をしても、極楽(ごくらく)を願わば、仏光(ぶっこう)照らして摂取し給(たま)うべし。いかがただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや。
善導(ぜんどう)和尚(かしょう)、釈(しゃく)して宣(のたま)わく、「弥陀(みだ)の身色(しんじき)は金山(こんせん)の如(ごと)し。相好(そうごう)の光明(こうみょう)、十方を照てらす。唯(ただ)念仏の者のみ有りて光摂(こうしょう)を蒙(こうむ)る。当(まさ)に知るべし、本願(ほんがん)最も強きを」。
念仏はこれ弥陀の本願の行なるが故に、成仏の光明、還(かえ)りて本地(ほんじ)の誓願(せいがん)を照らし給うなり。余行(よぎょう)はこれ本願にあらざるが故に、弥陀の光明、嫌いて照らし給わざるなり。
今、極楽を求めん人は、本願の念仏を行(ぎょう)じて、摂取(せっしゅ)の光に照らされんと思(おぼ)し食(め)すべし。これにつけても念仏大切に候(そうろう)。よくよく申(もう)させ給(たま)うべし。
勅伝第25巻
【ことばの説明】
観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)
『観無量寿経一巻』は元祖上人が定めた浄土三部経の一つで、西域(中央アジア)出身の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳と伝えられる。畺良耶舎はKālayaśas(カーラヤシャス)の音写で、五世紀頃の人。特に禅(観法)に秀で、請われて本経を訳したと言う。
『観無量寿経(観経)』は漢訳しか現存せず(漢訳からウイグル語に訳された重訳は存在する)、その内容から、中国撰述や中央アジア撰述など多説あったが決定的な結論は出ていない。少なくとも観仏の実践を勧めている点やその仏身の巨大性などから、北西インドや中央アジアにルーツをたどることは可能だと言われている。
内容は阿闍世(あじゃせ)説話に始まり、幽閉された韋提希夫人(いだいけぶにん)に対して釈尊が説く教説、そして阿難尊者がその内容を再説するという流れになっている。
中国に伝承されてより数々の論師がこの経に対して解釈を施したが、善導大師は、未来世一切の凡夫に対して、一心に心より信じて浄土への往生を願い、十念(十回の念仏)を修めることで必ず往生を得ることを示したのがこの『観経』であるとし、韋提希自身を他ならぬ(私たちと同様の)凡夫であると見なされた。
余(よ)の行(ぎょう)
往生を目的とした点では同じだが、念仏ではない他の行法のこと。
善導(ぜんどう)和尚(かしょう)、釈(しゃく)して宣(のたま)わく…
善導大師著わした『往生礼讃』よりの引用。
相好(そうごう)
仏の身体が備えている優れた目に見える特徴。代表的な三十二相と、さらに細かく八十種好を数えることもある。
【現代語訳】
『観無量寿経』(無量の命を持つと言われる仏を見奉る事が説かれた経)にはこのように説かれています。「(彼の阿弥陀仏の放つ)光明の一々が、十方の世界を万遍なく照らし、それぞれの世界で生を受けた衆生がもし念仏を称えるならば、その御光(みひかり)で包み収めて決して捨てることはない」。ここに言われるのは、(仏の)光明は、ただ念仏を称える衆生だけに届き、(同じく往生を目的とする)他の全ての実践を行ずる者を照らすことはないということであります。
そうは申しても、(念仏以外の)他の行によって極楽世界への往生を願うのであれば、仏の光明が(その者をも)照らしてもよさそうなものです。何故、ただ念仏を申す者だけを選んで照らすというのでしょうか?
善導和尚は解釈して次にように仰られています。「阿弥陀の身体の色といえばまるで黄金でできた山のようである。仏の身体から顕かに放たれる光明は、あらゆる方角にある世界を隈なく照らし給う。(そして)ただ念仏を行う者のみがその光明による救いを賜る。阿弥陀仏の本願の力が最も強いこと、そのことをこそ知っておくべきである」。
念仏というのはまさに阿弥陀如来がかつて修業時代に誓われた行であるが故に、覚りを得て仏となったのちに放たれる御光が、ひるがえって、(過去の)仏となる以前の誓願を照らし出すこととなっているのです(かつて修行時代に誓った誓願の通りに念仏の衆生をその光りをもって照らし出すのです)。(これに対して、念仏以外の)他の行は阿弥陀仏の本願ではないが故に、その光明は、これを差し置き照らすことがないのです。
まさに今、極楽浄土への往生を求める人は、本願に誓われた行である念仏を修めて、彼の仏が衆生を救い取ろうとされるその光に照らし出されることをこそ望むようにしてください。以上述べてきたことからしても、念仏というのは大切にすべきものなのです。何度でも念入りにお唱えになって下さい。
阿弥陀如来は寿命が無量であると同時に、無量の光明(みひかり)をもって私たちを照らして下さる仏でありました。寿命無量は時間の無限性を示します。そして光明無量は空間の無辺際を示します。まさにこの御法語で説かれるように、念仏を称える衆生を漏れなく照らして下さる御仏であります。光りとは仏の智慧であり大慈悲そのものだとも言えましょう。
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
私たち浄土宗のお勤めでは、御念仏を心行くまで申す念仏一会の前に、必ずお唱えする一節でもあります。六道輪廻の世界を流転し、娑婆世界にて迷いの生を生きる私たちが、西方浄土の御仏とつながる唯一の道、それを開くのが御念仏なのです。
合掌