Monthly Archives: 8月 2020

和尚のひとりごと「伝道掲示板96

破邪顕正

不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去
(ふしょうふめつ・ふじょうふだん・ふいつふい・ふらいふこ)

誤りを正し、真なるを示す
実在を認めず”一切空”を顕彰する中観派がモットーとした態度
融和を説く仏の教えにはこうした厳しい面もある

和尚のひとりごとNo303「法然上人御法語第二十七」

前篇 第27 親縁(しんねん)

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~仏も衆生を御覧になる~

【原文】

善導(ぜんどう)の、三縁(さんえん)の中(うち)の親縁(しんねん)を釈(しゃく)し給(たま)うに、衆生(しゅじょう)仏(ほとけ)を礼(らい)すれば、仏これを見給う。衆生仏を称(とな)うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念(ねん)ずれば、仏も衆生を念じ給う。かるが故に阿弥陀佛(あみだぶつ)の三業(さんごう)と行者(ぎょうじゃ)の三業と、かれこれ一つになりて、仏も衆生も親子のごとくなる故に親縁と名づく」と候(そうら)いぬれば、御手(おんて)に数珠(ずず)を持たせ給いて候(そうら)わば、仏(ほとけ)これを御覧(ごらん)候(そうろ)うべし。

御心(おんこころ)に「念仏申(もう)すぞかし」と思(おぼ)し食(め)し候(そうら)わば、仏も行者を念(ねん)じ給(たま)うべし。

されば、仏に見(まみ)えまいらせ、念(ねん)ぜられまいらする御身(おんみ)にてわたらせ給い候(そうら)わんずるなり。

さは候(そうら)えども、常に御舌(おんした)のはたらくべきにて候(そうろ)うなり。三業(さんごう)相応(そうおう)のためにて候(そうろ)うべし。三業とは、身(み)と口(くち)と意(こころ)とを申(もう)し候(そうろ)うなり。しかも仏の本願(ほんがん)の称名(しょうみょう)なるが故に、声を本体(ほんたい)とは思(おぼ)し食(め)すべきにて候(そうろう)。

さて我が耳に聞(きこ)ゆる程(ほど)申(もう)し候(そうろ)うは、高声(こうしょう)の念仏(ねんぶつ)のうちにて候(そうろ)うなり。

勅伝第23巻

 

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【ことばの説明】

三縁(さんえん、さんねん)/親縁(しんねん)

念仏を実践する者が得られる三種の利益(りやく)である親縁(しんえん)・近縁(ごんえん)・増上縁(ぞうじょうえん)のこと。

親縁とは、阿弥陀仏と念仏者との間に親しい関係が成立すること。近縁とは、念仏者が望めば仏が現前するように両者に近しい関係が成立すること。増上縁とは、称名念仏の滅罪と来迎の力のこと。

もとは善導大師が自らの体験に基づき『観経』の一節「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」を解釈する中で述べたもので、法然上人はそれを承けて本御法語を記している。

 

高声(こうしょう)の念仏(ねんぶつ)

憶念する念仏に対して、声高らかに唱える念仏のこと。法然上人によれば必ずしも大きな声で唱えなければならないとはされず、自分自身の耳で聴きとれる程度であれば高声念仏とされるべきだとここで述べられている。

 

 

【現代語訳】

善導大師が三縁の中の親縁を解釈されて「衆生が阿弥陀佛を礼拝すれば、仏はこれを御覧になる。衆生が阿弥陀佛の名を唱えれば、仏はこれを聞かれる。衆生が阿弥陀佛を念ずれば、(同様に)仏は(衆生を)念じられる。こういう訳で阿弥陀佛の三業(身口意にわたる全ての振舞い)は、衆生の三業と全く同一のものとして重なり、阿弥陀佛と衆生とがまるで親子の如く親しい関係になるので親縁と名付けるのである」とされておられるので、(もし)そのお手に数珠を持てば(数珠を繰って礼拝を捧げれば)、仏もそれを御覧になるでありましょう。

(もし)心に「よし、念仏を称えるのだ」とお思いになれば、仏もその行者に想いを致されることでしょう。

そのように仏に御覧頂ける、そして仏に思い致される、そのような身になられるでしょう。

しかしながらこのように申しましたが、常に舌を働かせるべきでもあります。(それは)(身口意の)三業を(仏と)一致させる為であります。三業とは身体(による行為)と口(による発話行為)と心(で思う行為)の事であります。くわえて阿弥陀佛の本願に誓われた称名(名を口で称えること)なのですから、(実際に)声に出すこと(による念仏)が根本であると考えられるべきです。

ところで(このような場合に)自分自身で聞き取れる程の大きさで称えれば、(それもいわゆる)高声の念仏のうちに入るのです。

 

 

浄土宗における現世利益(念仏によって得られる功徳)の要は往生への確信の深まりによる安心の確立であります。そして善導大師の宗教体験に基づいて釈されたという三業相応は、娑婆世界のただ中で生きる私たちに安心の拠り所を示しているように見えます。

西方極楽浄土は十万憶仏土の彼方にある、誠に気が遠くなるほど離れているようですが、称名念仏により仏と衆生は誠に近しい間柄となる。まさに、現前し、私たちの思いを受け止めてくれる仏、それが彼の阿弥陀仏であることを改めて実感致しました。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板95

自灯明 法灯明

「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、

法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
(中村元師訳「ブッダ最後の旅」)

人類の師、釈尊の臨終のことばとして伝えられる金言。

sri4悲しみにくれながらも師の臨終を看取った阿難尊者
(スリランカポロンナルワ)

和尚のひとりごと「伝道掲示板94

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わたくしは幾多(いくた)の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
(中村元師訳 ダンマパダより)


正覚を得た釈尊の勝利の言葉は何より自分自身に向けられたものであろうか

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和尚のひとりごと「伝道掲示板93

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名号を執持すること一心不乱なれば
命終わる時に臨んで、阿弥陀仏、もろもろの聖衆とともに、その前に現在したまう(阿弥陀経より)

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知恩院蔵 早来迎図

和尚のひとりごと「伝道掲示板92

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〝過去を追うな。未来を願うな
過去はすでに捨てられ、未来はいまだに来ていない。
ただ、いまおこっている事象をその時その時に観察し、
ゆらぐことなく、動ずることなく、よく見つめて、それを修すべきである”
(奈良康明師訳)

それに続くのは次の一節です。

死は明日にも来るかもしれないのに、誰もこれを知らない。


「一夜賢者の偈」として知られる釈尊の言葉です。
仏教の原点は、生かされているまさに今この瞬間を生ききること
そして読んで字のごとく「未来」は「未だ来ぬもの」
「過去」は「過ぎ去ったもの」

 13この教えが説かれた舎衛城のアナータピンディカ園(祇園精舎)
(平山郁夫画伯)

和尚のひとりごと「伝道掲示板91

K

「本来無一物なれば、諸事において実有我物(じつうがもつ)のおもひをなすべからず。一切を捨離すべし」
世に捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍上人の言葉

己を含めた一切を捨て去ったところに弥陀の名号が残る
無執着を説いた釈迦の精神を受け継ぐ力強い言葉である

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一遍上人

和尚のひとりごと「伝道掲示板90

安居楽業

安居楽業(あんきょらくぎょう)

私たちの願いは一日でも早く全ての有情が安心して暮らせる世の中となること。

天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼讓
仏の赴くところ、
世の中は平和で穏やかになり 日爽やかに 月清く澄み
風時に吹き 雨時に降り 天災疫病 起こらず
国土は豊か 人々は安らか
兵や兵器を用いることも戦争が起こる事もない…

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画像は極楽浄土を表す美しい風景を引用させて頂きました

和尚のひとりごと「伝道掲示板89

ともにこれ

「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。」
聖徳太子『十七条憲法』
我が国に仏法流布の礎を築いた聖徳太子のことばと伝えられる

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聖徳太子像

和尚のひとりごと「伝道掲示板88

新規 Microsoft Word 文書

善因善果 悪因悪果
ぜんいんぜんか あくいんあっか

釈尊は仰った。
世界中のどこへ行っても、空中でも深海でも山奥の洞窟でも、その中に入って
人が自らなした行いの影響から逸れるところは存在しない(『ダンマパダ』より 趣意)

与えられた条件をこの身に引受けることで、初めて道が開けてくる
かつて人々はここに
神なき大地の上に独り立ちし歩み出す人間の姿を見たという..

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