和尚のひとりごとNo325「あまねくわたる仏のこころ」
ふみまよう こころの闇を てらしませ わしのみ山に のぼる月影
冒頭の御歌は明治時代に生まれ、長野県に御座います大本山善光寺第119世・法主となられた大宮智栄(ちえい)尼公・大僧正(だいそうじょう)の御作です。智栄尼僧は女性の地位が低く見られていた時代に、女性の社会的地位向上や女性への教化活動を積極的に行い、社会教化活動に御尽力されたお方です。御歌を意訳すると、「闇路に迷う私を、あの山にのぼる月の光のように、如来様の御慈悲の光で心の中まで明るく照らし、お導きくださいませ」になります。
阿弥陀様の御光(みひかり)は念仏を申す者には、いつでも、どこでも、どこまでも放ってくださっており、常平生は「護念(ごねん)し給う」と説かれるように、念仏申す者をいつもお護りくださっているのです。
或る方が法然上人に、「阿弥陀様はお念仏の声を聞いて、最期臨終の時にお迎えに来てくださると申します。では阿弥陀様に救われるのは生きて生活している時はないのでしょうか。やはり臨終の時だけなのでしょうか」と現世の利益(りやく)について尋ねられました。現世利益(げんぜりやく)とは、神仏を祈ることによって、今この世で授けられる「恵み」や「救い」、「幸せ」とお受け取りください。すると法然上人は、「平生の時から救われるのです」と答えられました。続けて、「それは阿弥陀様の在しますお浄土に往き生まれる事(往生)を願う心に偽りがなく、我が身の往生を疑わずに来迎を待つ人は必ず極楽に生まれるということは、『観無量寿経』に説かれている通りです。このような志のある人を阿弥陀仏は八万四千の光明を放って照らされるのです。平生の時に照らし始めて、臨終までお捨てになりません。ですからお念仏を申す者を救い取って捨てることがない誓約というのです」と説かれました。つまり、南無阿弥陀佛とお念仏を申す人は、常平生から阿弥陀様の御光に照らされて護られているのであり、最期臨終まで照らし続けてくださっているということなのです。
法然上人は「死の縁は無量」と捉えられ、私たちはいつ、どこで、どの様に亡くなっていくかは分からない身であると示されました。しかし、いつどの様な形で死を迎えるかは分からなくとも、常日頃からお念仏を称えていればその一声一声に応じてくださっている阿弥陀様ですから、いついかなる時に死を迎えても大丈夫なのです。その為にも常平生のお念仏が大切であり、私たち自身が最期臨終まで称え続けるようにとお説きくださっているのです。
最期は必ず阿弥陀様に迎えとっていただき西方極楽浄土に生まれさせていただける。また常平生は阿弥陀様が見護ってくださっていると共々に想いを寄せてお念仏申して過ごして参りましょう。