和尚のひとりごとNo410「法然上人御法語後編第二」

後編 第2 他力往生

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【原文】およそ生死を出(い)ずる行、一つにあらずといえども、まず極楽に往生せんと願え。「弥陀を念ぜよ」という事、釈迦一代の教えに普(あまね)く勧(すす)め給えり。
その故は、阿弥陀仏、本願を発(おこ)して、「我が名号を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚(しょうがく)を取らじ」と誓いて、すでに正覚を成(な)り給う故に、この名号を称える者は、必ず往生するなり。
臨終の時、もろもろの聖衆(しょうじゅ)と共に来たりて、必ず迎接(こうしょう)し給う故に、悪業として障(さ)うるものなく、魔縁として妨げる事なし。男女貴賤(なんにょきせん)をも簡(えら)ばず、善人悪人をも分かたず、至心に弥陀を念ずるに、生まれずという事なし。
譬(たと)えば重き石を船に載せつれば、沈む事なく、万里(ばんり)の海を渡るがごとし。罪業(ざいごう)の重き事は石のごとくなれども、本願の船に乗りぬれば、生死(しょうじ)の海に沈む事なく、必ず往生するなり。
ゆめゆめ我が身の罪業によりて、本願の不思議を疑わせ給うべからず。これを他力の往生とは申すなり。
『十二箇条問答 』


他力往生
阿弥陀仏の本願力に乗じて往生する事。その力は行者自身の力(自力)ではなく、仏という他者の力による往生である為このように呼ぶ。
なお浄土宗二祖聖光上人によれば、元祖上人の滅後の邪義(念仏往生に対する誤った見解)に二通りあるとし、一つが阿弥陀仏の本願力に乗ずることなく往生する「自力往生」であり、今一つが称名念仏等の行を修せずに往生を得る「他力往生」であるとした。聖光上人はそのどちらも正しくないとしている。


「我が名号を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚(しょうがく)を取らじ」
『無量寿経』に説示された阿弥陀仏の第十八願(念仏往生願)の内容を要約したもの。「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」つまり、あらゆる世界に住む者が誠の心をもって、十回阿弥陀仏の名号を称えても往生が叶わないならば覚りを開かないという法蔵菩薩の決意を表したもの。


迎接(こうしょう)
念仏行者が臨終を迎えたときに、極楽浄土へ導くため阿弥陀仏や諸菩薩が紫雲に乗って迎えに来ること。来迎に同じ。


魔縁
仏道修行の道を過たせ、退転させる要因を象徴してこう呼ぶ。


本願の不思議
阿弥陀仏の本願が不可思議、つまり日常的な思考や認識を超越しており、言葉でも表しえない程である事を表現する。


おおよそ迷いの生死輪廻から解脱する修行はただ一つではなく数多く示されますが、まず何よりも(他の行を差し置いても)西方極楽浄土へ往生するのだと願いなさい。(その為の行として)弥陀仏を念じるように(弥陀仏の名号を称えるように)という事は、釈尊がその生涯にわたり説かれた教えの至るところで私たちに勧めて下さっています。
何故かといえば、阿弥陀仏は(その修行時代に)本願を立てて「私の名を称える者たちが、もし私の浄土に生まれる事が出来ないのであれば、私は覚りを開くまい」、このように誓われた末、既に尊き覚りを得られているのですから、この仏の名を称える者は確実に往生を遂げられるからです。
まさに死を迎えるその時には、(阿弥陀仏は)諸々の菩薩たちとともに来て、必ず浄土へ迎えとって下さいますので、(今まで積み重ねてきた)悪しき行いや、仏道を歩む者の邪魔をする悪魔もその力及ばず、往生の妨げとはならないのです。男女の性別や、身分の高低に関わらず、(あるいは)善人か悪人かという事も問わず、ただ一心に阿弥陀仏の名を称えるならば(極楽浄土に)生まれないという事はないのです。
これを例えるならば(そのままでは)沈んでしまうような重い石であっても、船に載せれば水中に没してしまうことなく、遠く遥かな海原を渡ってゆく事が出来るようなものです。(つまり私たちが積み重ねてきた)罪業が重いことまるで石の如くでありますが、本願という名の船に乗りさえすれば、生死輪廻の海に(再び)没してしまう事もなく、確実に往生できるのです。
自分自身の為してき行いの罪深さを慮って、仏の本願の不可思議なる力を決して疑うような事がないように。これをこそ(自分ではない)仏の力による往生と呼ぶのです。


自らのい為してきた罪故に往生が叶わないのではないか。そうした恐れは、仏の本願が私たちの思議を超えていることを知らないが故である。信こそが決定往生の安心を生む。
南無阿弥陀仏