和尚のひとりごと「1月25日は、浄土宗の宗祖法然上人のご命日)」

1月25日は、浄土宗の宗祖法然上人のご命日に当たります。その生涯の長きにわたって、尊きお念仏の教えを広められた元祖上人は、建暦2年(1212年)1月25日、御歳80歳の時、京都市は東山の大谷(おおたに)の禅房、現在は総本山知恩院はあるところで入滅され、そのあとには門弟たちによって廟堂が建てられてご遺骨が奉安されました。


毎年、ご命日に厳修される法然上人御祥当忌月法要の際には、遺言(ご遺訓 ごゆいくん)として私たちに伝えられている『一枚起請文』が高らかに拝読され、お念仏の声が山内に響き渡ります。勢観房源智上人の懇請で書かれたというこの『一枚起請文』には、愚者に立ち返りただひたすらに念仏申すべきことが記され、800年のちの世を生きる私たちも、あたかも一筋の光明の如く浄土への道筋を示して下さっています。


また法然上人の忌日法要を「御忌(ぎょき)」と呼びならわしていますが、「御忌」とは元来は、身分高き人、天皇や皇后の忌日法要に対する敬称でありました。それが大永4年(1524年)に、後柏原(ごかしわばら)天皇によって出された「大永の御忌鳳詔(ほうしょう)」という詔勅(しょうちょく)以来、勅会(ちょくえ)としての法然上人の御忌が勤められるようになりました。「毎年正月、京畿の門葉を集め、一七(いちしち) 昼夜にわたって法然上人御忌をつとめ、はるかに教えの源をたずねよ」。そのような命だったそうです。
その「御忌」も本来は1月18日よりご命日当日の25日まで勤めるものでしたが、知恩院では明治時代に旧暦の1月から時候の良い新暦の4月に変更されて今に至ります。


そのご命日に厳修される法然上人御祥当忌月法要の際には、京都市内を練り歩く念仏行脚も行われます。これは元祖上人を追慕しその遺徳を偲ぶためのものですが、きっかけとなったのは上人滅後15年経った嘉禄3年(1227年)に我が浄土門を襲った法難である嘉禄(かろく)の法難です。天台を始めとする旧仏教勢力と新興であった浄土の教えやそれを奉ずる人々との確執は上人生前からのものでしたが、天台僧定照による法然上人の『選択集』に対する非難の書『弾選択』に対して、隆寛律師が『顕選択』で反論したことにより、その対立は比叡山に舞台を移し、結果的に旧勢力は専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)を求めたばかりか、法然上人の遺骸を掘り出して鴨川に流そうとしました。結果的には、信空と覚阿により遺骸はひそかに嵯峨へ運ばれ、太秦(うずまさ)広隆寺を経て、後には西山粟生野(あおの)幸阿のもとで荼毘(だび)に付されました。これがのちの光明寺(西山浄土宗総本山)となります。この法難で数多くの念仏者や関係者の掃討が行われ、『選択集』は謗法の書として版本・版木の焼却処分まで要請される始末でした。


この嘉禄の法難は三大法難に数えられるほど事件でしたが、愚鈍なる者が念仏によって救われるという教えが、当寺人々の眼には如何に革新的に映ったかという事が伺われます。
さて浄土宗では毎月25日を世界平和念仏の日と定め、念仏結縁の日としています。


元祖法然上人のご命日となる今月1月25日が、皆さまにとりましても今一度元祖上人の御教えのありがたさを感じ、改めてお念仏を申して頂く尊いご縁となれば幸いです。