Monthly Archives: 3月 2021
和尚のひとりごとNo529「法然上人御法語後編第八」
安心起行(あんじんきぎょう)
【原文】
それ、浄土に往生せんと欲(おも)わば、心(しん)と行(ぎょう)との二つ、相応(そうおう)すべきなり。かるが故に善導の釈に、「但(ただ)しその行のみあるは、行すなわち孤(ひとり)にして、また至る所なし。但(ただ)その願のみあるは、願すなわち虚(むな)しくして、また至る所なし。必ず願と行と相扶(あいたす)けて、為す所みな尅(こく)す」と云(い)えり。
およそ往生のみに限らず、聖道門(しょうどうもん)の得道(とくどう)を求めんにも心(しん)と行とを具(ぐ)すべしと云えり。発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)と名づくるこれなり。今この浄土宗(じょうどしゅう)に、善導のごときは、安心(あんじん)・起行(きぎょう)と名づけたり。
それ、浄土に往生せんと欲(おも)わば、心(しん)と行(ぎょう)との二つ、相応(そうおう)すべきなり。かるが故に善導の釈に、「但(ただ)しその行のみあるは、行すなわち孤(ひとり)にして、また至る所なし。但(ただ)その願のみあるは、願すなわち虚(むな)しくして、また至る所なし。必ず願と行と相扶(あいたす)けて、為す所みな尅(こく)す」と云(い)えり。
およそ往生のみに限らず、聖道門(しょうどうもん)の得道(とくどう)を求めんにも心(しん)と行とを具(ぐ)すべしと云えり。発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)と名づくるこれなり。今この浄土宗(じょうどしゅう)に、善導のごときは、安心(あんじん)・起行(きぎょう)と名づけたり。
『往生大要抄』より
【語句の説明】
「但しその行のみあるは…」
善導大師『観経疏』
得道
仏道を歩んで悟りへと至ること。
発心
発菩提心に同じ。菩提心(覚りを目指す心)を起こすこと。修行の出発点。
安心・起行
安心(あんじん)・起行(きぎょう)・作業(さごう)は、浄土願生者の心構えと実践のあり方を表現している。「安心」とは往生を願う者が備えているべき三心(三つの誠の心)であり、「起行」とは五種正行を指し、「作業」は念仏実践上の四つの規範である四修を意味している。
【現代語訳】
そもそも、浄土に往生しようと願うならば、心と行の二つのつり合いが取れていることが求められます。それだからこそ、善導大師の解釈には「ただその行のみが行われているのであれば、行が孤立して、その行きつくべき先がない。ただ願いのみがあるのであれば、その願いそのものが虚しいものとなり、やはり行きつく先がない。願いと行いが互いに助け合うところに初めて、必ず目的がみな達成される」そのように仰っています。
これは浄土門に限らず、おしなべて聖道門において覚りを目指し仏道を歩まんとする際にも、心と行とはともに備えるべきであるとされています。いわゆる発心と修行とがこれです。今、私たちの浄土の教えにおいては、善導大師であれば安心と起行と名づけているものであります。
「但しその行のみあるは…」
善導大師『観経疏』
得道
仏道を歩んで悟りへと至ること。
発心
発菩提心に同じ。菩提心(覚りを目指す心)を起こすこと。修行の出発点。
安心・起行
安心(あんじん)・起行(きぎょう)・作業(さごう)は、浄土願生者の心構えと実践のあり方を表現している。「安心」とは往生を願う者が備えているべき三心(三つの誠の心)であり、「起行」とは五種正行を指し、「作業」は念仏実践上の四つの規範である四修を意味している。
【現代語訳】
そもそも、浄土に往生しようと願うならば、心と行の二つのつり合いが取れていることが求められます。それだからこそ、善導大師の解釈には「ただその行のみが行われているのであれば、行が孤立して、その行きつくべき先がない。ただ願いのみがあるのであれば、その願いそのものが虚しいものとなり、やはり行きつく先がない。願いと行いが互いに助け合うところに初めて、必ず目的がみな達成される」そのように仰っています。
これは浄土門に限らず、おしなべて聖道門において覚りを目指し仏道を歩まんとする際にも、心と行とはともに備えるべきであるとされています。いわゆる発心と修行とがこれです。今、私たちの浄土の教えにおいては、善導大師であれば安心と起行と名づけているものであります。
和尚のひとりごと「伝道掲示板290」
水や湯を身体に浴びて、身体を洗う際に唱える偈文。
湯灌とはそれが転じて亡者の為に行う儀式となったものである。
かつて釈尊は、
”水を必要としない沐浴とは、恭敬と清らかな行いとである”と仰った。
あるいは、
もし人が沐浴によって悪業を洗い流すことが出来るのであれば
”鰐も、竜も、亀も、蛙も、そのほかの水中にもぐるものどもも
みな天界におもむくことができるであろう”
との言葉も残している。
大切なことは自らの心を見つめ、浄めること。
釈尊は6年間に及んだ苦行ののち、その無益さを知り、
尼蓮禅河(ナイランジャナ川)にて身を浄め、ピッパラ樹のもとで成道されたという。
覚りを開いた地、ブッダガヤにはかつて人類の師が沐浴を行った蓮池が残っている。
合掌