和尚のひとりごとNo536「そっと手を貸す思いやり」

2021sigatu

 コロナ禍で沢山の医療従事者の方々が各地で懸命な看護に当たってくださっています。「看」という字は「手」という字の下に「目」という字を書きます。「目」の上に「手」をかざして、ものをよく見るという意味を表しています。手に心を込めて人の心に触れる事、手を差し伸べる事、対象者をじっくりと見るという意味が「看」という漢字には込められています。  お釈迦様は、「病人が出た場合は必ず看護すべし。」と定められました。或る時、一人の修行僧が病気にもかかわらず誰にも看病されずに横たわっていました。その病人を見かけたお釈迦様は、「どうして誰もあなたを看病しようとしないのか?」と問うと、「私は平生、他の修行者が病気になっても助ける事なく、悪臭の為にその場を厭い離れ、修行者として為すべき事を怠っていたからです。」と答えました。するとお釈迦様はその病気の修行僧の体を清め、衣を洗い、床や部屋を掃除しました。そして病人の体を撫でるお釈迦様の手によって苦痛は取り除かれ、癒されたと伝えられています。お釈迦様は、「平生に為すべき事を怠れば、自分が窮地の際には苦痛が激しく増すのである。」と病人に教え諭され、他の修行者たちには、「病気の者があれば看病しなければならない。お互いが仏弟子であるのだから常平生からお互い助け合うように。」と言われたそうです。

 平生、他の修行僧が困っている時に見て見ぬふりをし、何も手助けをしない事は善くない行いです。だからといってその修行僧が困っている時、同様に手を貸さず見捨てる事も善くない行いです。お釈迦様はどちらの修行者に対してもお互いが助け合い、特に病気になれば看病すべき事を示されました。仏道を歩むとは、目の前で困っている人や、苦しんでいる人たちにしっかりと寄り添い、その苦しみや痛みを我ごとのように受け止め、苦楽を共にする生き方です。

     手を取りて 共に泣かなん 泣く人の 痛む心に 心合わせて

 お釈迦様の伝記では、「病人の体を撫でるお釈迦様の手によって苦痛は取り除かれ癒された。」と言い伝えられていますが、「手」をもって行う看護が病者の苦痛を治癒する大きな要素であるようです。「手当をする」「手遅れになる」という表現があるように、手の働きを抜きにして看護の実際はあり得ないと思われます。また手の「触れる」「つかむ」という働きが、「把握する」「理解する」という精神的な働きと関連する事も大きな意味があるのだと思われます。病人に触れる事でその人の病状を把握し、相手を理解していくという働きへと繋がるのです。

 常平生から見返りを求める事なく、そっと手を差し伸べる思いやりを共々に心がけて参りましょう。