和尚のひとりごとNo628「どうなるか より どうするか」

 反戦、平和を訴え続けた日本のジャーナリストに武野武治(むのたけじ  1915~2016)という方が居られます。戦前に新聞報道の世界に入られましたが、国益に反する事が書けなかった時代です。報道による「嘘」を目の当たりにする事となりました。記者でありながら真実を書く事が出来なかった悔恨から終戦とともに退社し、「真のジャーナリストとは何か?」、「どうすれば人間が幸せに暮らせる社会が出来るのか?」を念頭に、ジャーナリストとして鋭く深い思索に裏打ちされた言葉を紡ぎ出してこられました。2021 7gatu
 武野さんは書物の中で、「どうするかを考えない者にどうなるかは見えない。」(週刊新聞『たいまつ』)という言葉を遺されておられます。先の分からない将来だけを見て、「どうなってしまうのだろう?」と不安だけを募らせても仕方のない事です。先ずは目の前をしっかりと見据え、今何をするべきか、どうする事が先決かを考え行動していく事で未来が少しずつ現実味を帯びてくるものです。
 『毒箭の喩え』というお話があります。一人の仏弟子がお釈迦様に、世界の常住性や死後の有無を問うのですが、お釈迦様は一つの喩えでもって答えられました。「喩えば或る男が毒矢で射られたとしよう。皆は早く医者を呼んで矢を抜き取ろうとするが、射られた男は、『この矢は誰が放ったのか?どの様な矢であるのか?』と矢についての事が分かるまで抜いてはならぬと叫んだ。しかし、矢についてあれこれ知ろうとするよりも、先ずは体に刺さった矢を抜く事が先決であり、そうしなければ死に至るであろう。」と説かれたのです。重要なのは今の苦しみをどう癒やしていくかという事がお釈迦様の言わんとするところです。
 死後に想いを馳せた時、地獄、極楽が有るのか無いのかをあれこれと考えるよりも、有る事を信じて先ずはお念仏申す事が念仏信仰においては大事な事です。非情な悲しみに遭い、「何故こんな苦しみを受けねばならないのか?」とその原因を追求してみても、又「どうして私は生きているのか?」と人生の意味を問うてみても、科学的視点では安らぎを得られません。科学で人生を解明しても人類は単なる進化の過程に過ぎないからです。私達は望むと望まざるにかかわらず、気付いた時には既に人生がスタートしており、平等でない環境の下、不条理な事もある世の中を生き抜いていかねばなりません。生きる事の意味を問うた時、目には見えない信仰の世界が一番の救いとなり、今を生きる我々に生ききる力を与えてくれるものです。後の世でまた逢えるという御教えを生きがいに、共々にお念仏申して過ごして参りましょう。