和尚のひとりごと「七月十六日は閻魔大王の縁日」
正月十六日と七月十六日は、閻魔王の賽日(さいにち)として知られていますが、特に七月十六日を大賽日(だいさいにち)と呼んでいます。年間でもこの二日間だけは地獄の沙汰を司る閻魔王もお休みをとるというわけで、昔から年間を通してお休みのなかった奉公人たちもこの二日間だけは実家に帰ることが出来ました。
閻魔はつぶさには閻魔羅社(えんまらじゃ)と言い、Yama-rāja(ヤマラージャ)の音を写した名前です。羅社(ラジャ)は大王を意味しています。閻魔(ヤマ)は古くインド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』に登場します。そこでは人として初めて死んだ者として、死者が歩むべき道を発見した者として崇拝されています。またその世界は地獄というよりは、明るい楽園のイメージで表象され、祖霊たちとともに楽しく暮らすと言われていました。
やがて時代が下ると、ヤマ天は世界を守護する神々の一人として南方を守っている神であり、また死者の国へ赴く者を裁く審判者としての役割が強調されるようになります。この姿が仏教とともに伝わり、私たちにもなじみ深い閻魔さまとなっていくのです。
今少しインドの伝承を紐解いてみれば、死神ヤマは冥界を支配し、やがて死にゆく者へと使者を遣わしその者の霊魂(たましい)をとらえて、自分の宮殿へと連れていきます。そしてその場で、側にいるチトラグプタが死者の生前の行いの記録を読み上げ、それを聞いたヤマが記録に基づき審判を行うとされています。
さてところ変わって、日本での話、私たちは死後、やはり閻魔大王の前に引き出されて生前の行いの善悪を計られます。もちろん「善」が「悪」よりも多ければ(重ければ)私たちはよき境遇へと生まれ変わる事が出来、反対であれば地獄の責め苦を味わう世界に連れていかれると言います。昔からこの時までに出来るだけ善い行いを積んで、間違っても悪い行いの比重が大きくならないように生きていかなければならないとされて来ました。
また一説では、閻魔大王と地蔵菩薩との深い縁が語られています。つまり私たちが死後、極楽浄土へ行けるか、地獄へ堕ちるかは、この二人の話し合いによって決まると言うのです。また閻魔大王は慈悲深い地蔵菩薩の化身であるともされています。
良きも悪きもついつい行ってしまうのが私たち人間の姿かもしれません。そして実行に移さないまでも、心の中でよからぬ事を思ってしまうのも、偽らざる私たちの姿でしょう。良い事と悪い事の分別はつく、でもそんな自分を律して生きていくことは、もしかしたら本当に大変なことかもしれません。
時には厳しいお顔をされ、時には優しい菩薩さまのお顔を見せてくれる、閻魔大王もそのような存在なのかもしれませんね。