和尚のひとりごとNo652「法然上人御法語後編第十六」
念珠(ねんじゅ)
問う。念仏せんには、必ず念珠(ねんじゅ)を持たずとも苦(くる)しかるまじく候(そうろ)うか。
答(こた)う。必ず念珠を持つべきなり。世間の、歌を歌い、舞(まい)を舞うすらその拍子(ひょうし)に随(したが)うなり。念珠を博士(はかせ)にて舌(した)と手とを動かすなり。
但(ただ)し、無明(むみょう)を断(だん)ぜざらん者は、妄念(もうねん)起こるべし。世間の客(きゃく)と主(あるじ)とのごとし。念珠を
手に取る時は、「妄念の数を取らん」とは約束せず。「念仏の数取らん」とて、念仏の主を据(す)えつる上は、念仏は主、妄念は客なり。
さればとて、心の妄念を許されたるは過分(かぶん)の恩(おん)なり。それにあまっさえ、口(くち)に様々の雑言(ぞうごん)をして念珠を繰り越しなどする事、ゆゆしき僻事(ひがごと)なり。
東大寺十問答より
【語句の説明】
念珠(ねんじゅ)
仏を念じる際に使用する数珠の意。数珠(アクシャ・マーラー)は元来、バラモン僧によって用いられ、のち仏教徒にも採用されたと言われ、数珠玉の数などについて経典に規定がある。
浄土宗では念仏の数を数える為に用いられる2連の日課数珠が一般的である。
博士(はかせ)
音の高さや旋律(メロディー)など伝統的な和楽を構成する要素の「基準」を示したもので西洋音楽の音符に相当する。
無明(むみょう)
迷いの根本である無知のこと。原語はアビドヤー(avidyā)で文字通り「明」が「無い」事を表わす。
諸説あるが、仏教の真理である四諦八正道などについて知らない事を意味していたという。
客(きゃく)と主(あるじ)
「主」とは主なもの、中心的なものであり、「客」とはそれに対して二次的な意味合いしか持たないもの、従属的な価値しか持たないものを意味している。
過分(かぶん)の恩(おん)
分に相応しない、通常の基準を遥かに超えた恩。
雑言(ぞうごん)
悪口。
僻事(ひがごと)
物事の道理に反した、間違った事。
【現代語訳】
お訊ねします。
念仏するにあたって、必ずしも念珠を携えなくとも、支障はございませんか?
答えよう。
必ず念珠を手にするべきであります。この世のならいでは、歌を歌い、舞を踊るときでさえ、決まった拍子に従って行うものです。(念仏をする時にも)念珠をとりどころとして舌と手とをともに動かして行うべきなのです。
そうは言っても、未だ無明を断じる事の出来ていない者は、(念珠を繰っていても)誤った心が沸き起こってくるに違いありません。これはあたかも世間でいうところの「客」と「主」のようなもので(誤った迷いの心は「客」に過ぎず、念仏の行為こそが「主」なので)す。ひとたび念珠を手にとれば、「誤った迷いの心を数えよう」などとは誓わないものです。「念仏の数を数えよう」と心を定めて、念仏を「主」とする以上は、念仏が主(あるじ)の如く中心的なものであり、誤った心は客(きゃく)の如く二次的な意味合いしか持たないものなのです。
そのように考えても、心の迷いを許されているという事は、仏による過分の恩であります。それにも関わらず、あるまじき事に、種々の悪しき事柄を口にしながら数珠を手繰っていくなどという事は、誠に道理に違えた事であります。
口に名号を称えていれば、たとえ心に妄念が起ころうとも、それは気に留めるべき事ではありません。念仏を行っている以上は、「念仏」が主であり悪しき心は客人(客塵)に過ぎないのでしょう。
念仏を相続する事の有難さがここにも示されていると感じます。
合掌