Monthly Archives: 8月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板428

kakusyaniha

”真理を見る人は、他の見ているものを見、他には見えていないものをも見る。
真理を見ない人は、他の見ているものばかりか、他には見えていないものをも見ることはない。”
『ウダーナヴァルガ』

和尚のひとりごと「伝道掲示板427

ixtupoteki

世の識者と呼ばれる者たちを見よ。
各々が信ずる考えに固執して、自分こそが正しいと主張して、一歩も譲らない。
「私が説くように知る人こそが真理に通達した人である。
これを批難する人々はいまだ不完全な人間である」と。

もし相手の考えを認めない者どもが愚者であり、劣っており、低級な者であり、智慧足らずの者なのならば、
己が考えに固執して他を認めないこれらの人々は、皆が愚者であり、劣っており、低級な者であり、
智慧足らずの者という事になるだろう。

反対に自ら信ずる見解によって、浄らかとなり、真理に通達した、聡明なる人となるのであれば、
これらの者どもの内で優れた知性を持たない者は存在しない事になるだろう。

彼らは各々自分の見解を真理であると見做している。
故に私は彼らをこそ愚者であると言う。

一方的な断定に基づいて己が考えを為し、世の中で言い争うに至る。
全ての哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことはもはやない。
『スッタニパータ』

和尚のひとりごと「伝道掲示板426

zaike

この在家の生活は狭苦しく、煩わしく、塵芥が積もるものである。
ところが家を出たならばどうか?
広々とした野外にて、一切の煩いは存在しないだろう。

このように見て眼のある方は出家されたのである。

”諸々の欲望には憂いがあることを見て
また出離こそが安穏であると知って
私は勤め励むでしょう。
私の心はまさにこのことを楽しんでいるのです。”
『スッタニパータ』

和尚のひとりごと「伝道掲示板425

mu5ryiku

”人が欲念を起し、その願望通りになるならば
彼は満足し喜ぶだろう。

人が欲念を起し、その願望通りにならないならば
彼はあたかも矢に射られたかのように苦しむ。

足元の蛇を踏まぬように注意して歩むように
欲望に十分注意しながら欲望を回避する人は
この世で執着を乗り超え、世の煩いを超越する。

もし人が田畑や所有地、黄金や奴隷、使用人や女性たち、親類縁者など
その他さまざまな欲望を追い求めるとき

無力であるかのように見えた欲望が彼に勝ち、彼を踏みにじる。
故に苦しみが彼に付き従うこと
壊れかけた船に水が浸水していくようなものである。

だからこそ人は常に自らの心を気にかけ
それが欲望に染まらぬように回避することである。
船にたまりつつある汚水を汲みだすように
欲望を捨てて、激流を渡り、彼岸に達するのだ。”
『スッタニパータ』

和尚のひとりごと「伝道掲示板424

subetenoikimono

『スッタニパータ』は釈尊の金口の説法(仏教を説かれたお釈迦様が実際に説かれた教え)に最も近い内容を伝え、また時代的にも紀元前に遡る最古の詩句を含んでいると言われています。
一般的には私たちが大切に守り伝えてきた大乗仏教に比べて
最初期の仏教の教えは厳しく、他の存在を顧みることのない教えであると理解されているかもしれません。
しかしお釈迦様が弟子たちにそう説かれたであろう内容を見ると
今回ご紹介したような 全ての生類(有情)に対して慈悲を心を持ち
その幸せを願うことが大切なことであるとされていたことが改めて分かります。
古来より出家したお坊さんが身につけるべき心の一つに「四無量心(しむりょうしん)」がありますが
これは無数の生き物たちの苦しみを取り除き、安楽・安心を与えよという教えであります。

和尚のひとりごと「伝道掲示板423

akugou

もし悪事を為したならば決してそれを繰り返すな。
悪事は習慣となり、その蓄積は苦しみとなる。
もし善事を為したならば、それを繰り返せ。
善事が習慣となれば、その蓄積は安楽となる。

いまだ悪業が熟さぬあいだは、悪人でも幸福でいる事ができる。
しかしいずれ悪業が熟せば禍(わざわい)に遭う。
いまだ善業が熟さぬあいだは、善人でも禍に出遭う事がある。
しかし善業が熟せばそれは幸いをもたらす。
『ダンマパダ』より

和尚のひとりごとNo683「法然上人御法語後編第十七」

深信因果(じんしんいんが)

十重(じゅうじゅう)を持(たも)ちて十念をとなえよ。四十八軽(しじゅうはちきょう)をまもりて四十八願(しじゅうはちがん)を頼むは、心に深く希(こいねが)う所なり。
おおよそいずれの行(ぎょう)を専(もは)らにすとも、心に戒行(かいぎょう)をたもちて浮嚢(ふのう)を守るがごとくにし、身(み)の威儀(いぎ)に油鉢(ゆはつ)をかたぶけずば、行として成就(じょうじゅ)せずという事なし。願として円満せずという事なし。
然(しか)るを我等(われら)、或(あるい)は四重(しじゅう)を犯し或(あるい)は十悪(じゅうあく)を行(ぎょう)ず。彼も犯し此(これ)も行ず。一人(いちにん)としてまことの戒行を具(ぐ)したる者はなし。
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」は、三世(さんぜ)の諸仏の通戒(つうかい)なり。善を修(しゅ)する者は善趣(ぜんしゅ)の報(ほう)を得(え)、悪(あく)を行(ぎょう)ずる者は悪道(あくどう)の果(か)を感(かん)ずという、この因果の道理を聞(き)けども聞(き)かざるがごとし。はじめて言うに能(あた)わず。
然れども、分(ぶん)に随(したが)いて悪業(あくごう)を止(とど)めよ。縁(えん)にふれて念仏を行じ、往生を期(ご)すべし。

勅伝第32巻

koudai18

 


【言葉の説明】
深信因果(じんしんいんが)
深く因果の道理を信じること。とりわけ善因楽果、悪因苦果の法則を深く信じること。

十重(じゅうじゅう)
十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)のこと。『梵網経』に出ており、十波羅提木叉(じゅうはらだいもくしゃ)、十波羅夷(じゅうはらい)とも。菩薩が守るべき十種類の戒。大乗菩薩は決して犯さざるべきものとされ、伝統部派の波羅提木叉の中の波羅夷罪に相当する。これは犯せば積み重ねた修行の成果は失われ、僧伽(教団)から追放される。
①殺(せつ)は有情を殺す事。②盗(とう)は盗む事。③婬(いん)は性交渉を持つ事。④妄語(もうご)は噓をつく事。⑤酤酒(こしゅ)は酒を売る事。⑥説四衆過(せつししゅ)は出家・在家を通じて仏教徒の犯した罪を吹聴する事。⑦自讃毀他(じさんきた)は自分を褒め、他人をけなす事。⑧慳惜加毀(けんじゃくかき)は物惜しみして他へ施さず、乞う者をけなす事。⑨瞋心不受悔(しんじんふじゅげ)は怒りのあまり他者からの謝罪を受け入れない事。⑩謗三宝(ほうさんぼう)は仏・法・僧の三宝をそしる事。これら10種を行わぬように心がけるのが十重禁戒。

四十八軽(しじゅうはちきょう)
上の同じく『梵網経』に説かれるが、こちらは犯しても罪を懺悔する事で滅罪が果たされる軽い罪を戒めた戒。

四重(しじゅう)
四つの波羅夷罪(はらいざい)の事。伝統的に波羅夷(pārājika、パーラージカ)には殺生・偸盗 ・邪淫・妄語の四つを数える。特にここでの妄語は、自ら覚っていないにも関わらず、阿羅漢になった、無上の正覚を得たと豪語する事を指す。これらを犯すと教団追放になる重罪である。

十悪(じゅうあく)
十種の悪行。殺生(せっしょう、殺す事)、偸盗(ちゅうとう、盗む事)、邪婬(じゃいん、不倫)、妄語(もうご、嘘をつく事)、両舌(りょうぜつ、仲たがいさせる言葉)、悪口(あっく、暴言)、綺語(きご、無意味な言葉)、貪欲(とんよく、貪り)、瞋恚(しんに、怒り)、邪見(じゃけん、因果の否定という見解)。

諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)
七仏通戒偈「諸悪莫作、衆(しゅ)善奉行、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」より。訳により「衆善奉行」の「衆」が「諸」となるが意味は同じ。「すべての悪を為すことなく、多くの善を実行せよ、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」の意。過去七仏の教えをまとめた戒の根本とされる。


【現代語訳】
およそどのような修行を専心に行なおうとするにしても、心に戒を保ち実践するには、あたかも水中でうきぶくろを守り手放さぬように心がけるべきであり、また身体の立ち居振る舞いについては、油を入れた鉢を持って一滴もこぼさずに進むように注意深くあるべきであり、そのように行って修行として成し遂げられぬことはなく、また願い叶わぬ筈がありません。
そうは言っても私たちは、時には四重(しじゅう)という思い罪を犯すばかりか、十悪(じゅうあく)という悪行さえも行います。あれも犯し、またこれも犯してしまう。実にただの一人も本当に戒を具足し実践できる者はありません。
ところで「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」(諸々の悪を為す事なく、諸々の善を行ぜよ)というのは、三世の諸仏が一貫して説かれた大切な戒であります。「善き行いを実践する者は安楽なる境涯という結果を受け、悪しき行いを実践する者は悩ましき境涯に堕ちるとい報いを得る」この因果応報のことわりを耳で聞いても、まるで聞いていないが如くであります。ここに改めて申し上げるようなことではありませんが。
このような中でも、今の能力や環境が許す範囲でも悪しき行いは止めなさい。そのご縁があるならば念仏を行い、往生への願いを起こしなさい。


ことは僧俗を問わない。
戒行は仏法を行ずる私たちにとりまことに大切なものであり、因果のことわりもまた同様である。たとえその通りに守れないとしても、出来る範囲で守り、念仏を称えよ、往生を願え。
力強い法然上人のお言葉です。

和尚のひとりごと「伝道掲示板422

gusya

愚者は悪を為しても
その報い現れ出ぬ間は悪を蜜の如く思いなす。
しかるに悪の報いが熟すとき
苦の報いを受け、それが必ずやって来ると思い知る。

悪を作す者が、毎月のように苦行に精励する者たちに倣い
萱草(かやくさ)の端につくだけの極微の食物で満足しようとしても
その功徳は真理を弁えた人々の功徳の十六分の一にも及ばない。

悪を為してもその業は
あたかもしぼりたての生乳の如く
ただちに固まることはない。
しかし灰に埋もれて見えないが
常にくすぶり続ける火種の如く
愚者につきまとい悩まし続ける。
『ダンマパダ』より

和尚のひとりごと「地蔵菩薩と地蔵盆

今年もお坊さんにとってもまた一般の皆さまにとっても、何かと慌ただしいお盆が終わりました。酷暑もようやくやわらぎ、8月も半ばを過ぎるこの季節、各地で地蔵盆の縁日が立ちます。
地蔵盆は子どもを守る地蔵菩薩にお参りし子どもたちの無病息災を祈念する行事で、地蔵信仰が広く浸透した関西地方を中心に行われてきました。本来は地蔵菩薩の縁日である旧暦24日に行なわれていましたが、現在は新暦の7月24日もしくは8月24日を中心に前後3日ほどをその期間としているところが多いそうです。
さてこの時にお参りするのは、寺院に祀られたお地蔵さんの他に、路傍や街角にあり日々親しまれているお地蔵さんがその対象となり、道を守護する道祖神信仰とも関係が深いものです。
我が国では、地蔵菩薩は自身は浄土へ行かずに六道輪廻の世界に留まり、そこで悩み苦しんでいる衆生を救ってくれると言われており、また特に子供の守り神として信仰されています。親よりも先に旅立った子どもたちが賽の河原で迷わないように、導いてくれる役割も期待されています。そして私たちがまずイメージする道端の六地蔵は、天界、人間界、修羅界、そして畜生、餓鬼、地獄の六つの迷いの境涯(六道)のすべてに地蔵菩薩の功徳が及ぶとされることに因んでいます。また地蔵菩薩は変幻自在であり、教化する相手に応じて様々なお姿をとるそうです。もしかしたら皆さまもどこかでお会いできているかも知れません。
ところで地蔵菩薩が六道に留まることになったのは、かつて私たちの住む娑婆世界に出生して多くの人々を導き、80歳で入滅された釈迦菩薩より付属を受けたからです。釈迦が入滅されてから、この先5億7600万年後あるいは56億7000万年という遠い未来まで出現しない救世主(弥勒菩薩)に代わり、仏が不在となるこの世界にて人々を救う役割を担っているのです。
さてこの有難い地蔵菩薩は、生まれ故郷のインドでは女神さまの姿をとっていました。大地を守護し、財を蓄え、病を治してくれる女神さまです。このバラモン教で信仰されていた神様は、仏教では大地に眠る鉱脈のように無尽の慈悲を持った菩薩「地蔵菩薩」として生まれ変わり、我が国に伝わったのです。
コロナ禍で何かと大変な時期ですが、皆様も未来を担う子供たちが健やかに育って行けるように地蔵菩薩に手を合わせてみませんか。

和尚のひとりごと「伝道掲示板421

nannjihasudeni

”勤しみ、励み
またそれを楽しみとし
怠惰なることを怖れる比丘は
もはや堕落する事もなく
既に涅槃に近づいている。”
『ダンマパダ』より