Monthly Archives: 9月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板445

ikari

婆羅門が釈尊に問うた。
”何を断てば安眠できるのか?”

釈尊は答えた。
”怒りを断てば安眠できる。
怒りを断てば悲しむこともなくなる。
実に怒りこそが諸々の毒の根であり
その果実は甘美である。
私はその怒りをこそ殺す者を称賛するだろう。”
『相応部経典』婆羅門相応より

和尚のひとりごと「伝道掲示板444

kusari

釈尊は説かれた。
”ナンダー尼よ。
病んで、腐った、不浄なる人間の身体を見よ。
身体は美しくはないとの思いによって、ひたすらに正しく定まった心を育てよ。

まさにこの死体のように私たちの身体は成っていくであろう。
腐り、悪臭を放つにも関わらず、それを愚かなる者たちは喜んでいる。”

昼夜を問わずにこのように観察した私は
人間の身体の本来の姿に目覚め、その事実を見た。
そしてついに私は、内面も外面もともに対象からの遠離に達し
束縛を離れ、寂静なる涅槃の境地に達した者となった。
『長老尼偈』より

和尚のひとりごと「伝道掲示板443

masani

”是の故に当に知るべし。
世は皆な無常なり、会うものは必ず離るること有り。
憂(うれい)を懐(いだ)くこと勿(なか)れ。
世相は是くの如し。当(まさ)に勤めて精進して、早く解脱を求むべし。
智慧の明(あかり)を以(もっ)て、諸(もろもろ)の癡闇(ちあん)を滅すべし。
世は実に危脆(あやうき)なり、牢強(けんきょう)なる者無し。”
『仏遺教経』より

和尚のひとりごと「伝道掲示板442

tatoe 1


僅かな火種もやがて大火災を引き起こす。
心にある貪瞋痴の欲望も
当初は僅かであってもみるみるうちに育ち
やがて私たちの手に負えないまでに成長する。
この禍を知らねばならない。

和尚のひとりごと「伝道掲示板441

ateyo

”財の蓄えが少しであれば、分相応に与えよ
ほどほどの財があるのであれば、ほどほどに与えよ
多くの蓄財があるのであれば、より多くを与えよ。”

布施行は自らの心を清らかにする道でもある。

釈尊の過去世を物語るジャータカにおいては布施行に勤しむ求道者が描かれる。

有名な捨身飼虎は虎の住処に身を投げた過去世の釈尊の姿である。

和尚のひとりごと「彼岸

春と秋にやって来るお彼岸は、それぞれ昼の長さと夜の長さが等しくなる「春分の日」「秋分の日」を中心として前後3日間の計7日間にわたって営まれます。ところで「彼岸(向こう岸)」とは何を意味しているのでしょうか?一般的には死者の赴く世界、あるいは太陽が沈む西方の彼方にある極楽浄土を指していると理解されているでしょう。
この言葉は仏教の故地であるインドでは「pāram パーラム」と呼び、迷いの世界であるこちら岸(此岸)に対して、迷いを離れた悟りの世界である向こう岸(彼岸)を意味します。
向こう岸へ渡り切ることで、乗り越えてあとにすべき世界、それが私たちの住む迷いの世界(娑婆世界)であります。そしてそれは容易には渡れない川であるが故に、釈尊はしばしば「激流」に譬えています。釈尊生前の説法を色濃く反映していると言われる初期経典においては次のように説かれています。

”この世において誰が〈激流〉を渡るのであろうか? この世において誰が大海を渡るのであろうか?
身体をしっかりと支えてくれる寄る辺のない深い海に入って、誰か沈まない者はいるだろうか?”
「常に戒をたもち、智慧あり、よく精神統一をなして、自らの心を内省し、またよく注意している人、こうした人こそが渡りがたい〈激流〉を渡ることができる。」

世間(私たちの生きている世界)についてよく理解した上で、尊ぶべき真理を見、〈激流〉を渡り切ったこのような人、束縛を脱して、煩悩の汚れを離れた人、このような人を賢者たちは「聖人」であると知っている。

神霊よ、聞くがよい。
それら煩悩が起って来る原因について知っている人々は、その煩悩を取り除くことができる。
彼らは渡りがたい、そして未だ誰も渡り切っていないこの〈激流〉を渡り、もはや次の新たな生存をその身に受けることはない。

大切なことは、渡り切ることがたとえ誠に困難であってもそれは実現可能であり、現にそれを体現して悟りを開かれた釈尊がいたという事実でありましょう。弟子たちによって脈々と伝えられたその言葉は「経」として私たちに示されているのです。

ところで伝統的な仏教に対して新たな救済の方法論を打ち出したのが大乗仏教です。しばしば「大きな乗り物」に譬えられるこの教えは、大乗仏教という「大きな乗り物」によってより多くの衆生を向こう岸へ渡すことを目指していると理解できるでしょう。

ではその大乗経典において「彼岸」はどのように説かれているのでしょうか?宗派を超えて親しまれている『般若心経』を見てみましょう。
この経典のタイトルは『般若波羅蜜心経』と言います。『般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)』とは「Prajñā-pāramitā、プラジュニャーパーラミター」の音写であり、「彼岸に渡る(悟りに至る)為の深い洞察」を意味します。この経典は大部の『大般若経』の内容の真髄をまとめたお経であると言われますが、その末尾は「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)と、結ばれます。この経典を翻訳したとされる玄奘三蔵は、インドの言葉から中国語(漢語)に訳すに際して、その正確さに拘るとともに様々な工夫を凝らしました。ここでは経典のタイトルや最後の一文はあえて中国語に意訳せず、元のインドのサンスクリット語の音をそのまま写しているのです。それはそうする事によって、元の言葉の音が持つ力を残したかったからであると言われています。
現代語訳を参考にすればこのような意味を持っています。
「往ってしまった方よ、往ってしまった方よ。完全に彼岸へと至った方よ。その悟りに幸いあれ。」
覚りを開いたブッダとその悟りを讃えた言葉、ここでも「彼岸」は「悟りの世界」を意味しています。

さて中国浄土教の歴史において特筆されるべき善導大師は、その著『観無量寿経疏』の中で「太陽が真東より昇り真西に沈む春分と秋分の日は、沈む太陽を見ながら、その彼方にある西方浄土に想いを馳せるのに最も適している」と記されているそうです。かつて西方の彼方を見ながら、その彼方にある浄土を観想した人々の想いは、確かに現在の私たちの心に受け継がれています。自らが極楽浄土へ往生できることを心より願い、かつて私たちを慈しんでくれた亡き人への感謝の気持ちを新たにできる、彼岸はまさにそのような季節であります。

和尚のひとりごと「伝道掲示板440

tadasiki

”貪りが起こるのは、甘美なる対象を見て正しくない思いを持った故である。
瞋(いか)りが起こるのは、嫌悪をいだく対象に対して正しくない思いを持った故である。
愚かさが起こるのは、何をすべきか、何をすべきでないかについて、知らないが故である。
そして邪(よこしま)なる考えが起こるのは、正しくない教えを受け入れ
正しい教えを受け入れないが故である。”
『増支部経典』より

そしてこれら四つは避けるべきものである。

和尚のひとりごと「伝道掲示板439

watasiha

”次の四種類の人間がいる。
一、自らあえて苦しみを受ける人。
このような人は間違った信条に基づいて苦行を行う。
二、他者を苦しめる人。
このような人は殺しや盗みといった悪業によって他人を苦しめる。
三、自他ともに苦しめる人。
四、最後に自ら苦しむことなく、他者をも苦しめない人。
このような人は欲望を離れて、殺し盗むことなく、仏法に従って清らかなる道を歩まんとする人である。”
『中部経典』より

和尚のひとりごと「伝道掲示板438

wareha

”我如良医知病説薬。服與不服非医咎也”
『仏遺教経』より

説かれた教えを実践するかどうかは私たちに委ねられている。
それは医師の処方した薬を服用するかどうかが
患者次第であるのと同様である。
そして法(教え)はまさに私たちの前に示されている。

和尚のひとりごと「伝道掲示板437

syuxtuke

出家者(沙門)に布施し、その生活を支えることは
田畑に種を蒔き、その収穫を得ることになぞらえて
功徳の収穫を得るための行為として奨励された。
その対象は釈尊自身に限らず
あらゆる出家沙門にも広げられる。
これを福田と呼ぶ。

その釈尊が在家信者の筆頭とも言える給孤独長者に告げた言葉。