和尚のひとりごとNo729「法然上人御法語後編第二十一」

随順仏教

「念仏して往生するに不足(ふそく)なし」と云(い)いて、悪業(あくごう)をも憚(はばか)らず、行(ぎょう)ずべき慈悲(じひ)をも行 (ぎょう)ぜず、念仏をも励(はげ)まさざらん事(こと)は、仏教の掟(おきて)に相違するなり。
譬(たと)えば、父母(ぶも) の慈悲(じひ)は、善(よ)き子をも悪(あ)しき子をも育(はぐく)めども、善き子をば悦(よろこ)び、悪しき子をば嘆(なげ)くがごとし。仏(ほとけ)は一切衆生 (いっさいしゅじょう)を哀(あわ)れみて、善きをも悪しきをも渡(わた)し給(たま)えども、善人(ぜんにん)を見ては悦び、悪人(あくにん)を見ては悲しみ給 (たま)えるなり。
善き地(じ)に善き種(たね)を蒔(ま)かんがごとし。かまえて善人にして、しかも念仏を修(しゅ)すべし。これを、真実(しん じつ)に仏教に随(したが)う者というなり。

『念佛往生義』より

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随順仏教(ずいじゅんぶっきょう)
仏の教えに素直に従うこと。通仏教的概念。

慈悲(じひ)
「慈」(Ⓢmaitrī)は、あたかも友人に対するように一切の有情に対して慈しみの情を持つこと、「悲」(Ⓢkaruṇā)とは、他者の悲しみを自らの悲しみであるかのように同情し共有すること。慈悲の心は仏・菩薩が衆生を憐れんで示すものであるだけではなく、仏の教えに随順せんとする仏弟子自身が保つべき心であるとされている。


「念仏するだけで往生できるのだからそれで十分ではないか」などと申して、ためらう事もなく悪い行ないをして、持つべき慈悲の心をも持とうとせず、なおかつ念仏さえもそれに励もうとしないのであれば、それは仏教の掟に反しているのです。
例えば父母が子供に示す慈しみの情は、善い子であろうと悪い子であろうと育みますが、善い子に対しては喜び、悪い子に対しては嘆くようなものです。仏は善い人間であろうと悪い人間であろうと、分け隔てなく救いへと導くとは言え、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しんでいるのです。
恵まれた土壌に上質な種を蒔くようなものです。よくよく心掛けて善人となって、それに加えて念仏を修めるべきです。これこそを誠に仏の教えに従う者と呼ぶのです。


善導大師は、一心に仏のお言葉を実践する者を真の仏弟子と呼ぶとされました。そして法然上人は、真の仏弟子とは善を心掛け、念仏を実践すべきであるとされています。このお言葉を諫めとして日々過ごしていきたいものです。