和尚のひとりごとNo744「法然上人御法語後編第二十二」
退縁悪知識(たいえんあくちしき)
往生(おうじょう)せさせおわしますまじきようにのみ、申(もう)し聞かせまいらする人々の候(そうろ)うらんこそ、返(かえ)す返(がえ) すあさましく心苦しく候(そうら)え。いかなる智者(ちしゃ)、めでたき人々(ひとびと)仰(おお)せらるるとも、それにな驚かせおわしまし候(そうら)いそ。各(おのおの)の道(みち)にはめでたく貴(たっと)き人(ひと)なりとも、解(さと)り異(こと)に、行(ぎょう)異(こと)なる人の申(もう)し候(そう ろ)う事(こと)は、往生浄土(おうじょうじょうど)のためには中々(なかなか)ゆゆしき退縁(たいえん)、悪知識(あくちしき)とも申(もう)しぬべき事(こと)どもにて候(そうろう)。
ただ凡夫(ぼんぶ)の計(はか)らいをば聞き入れさせおわしまさで、ひとすじに仏(ほとけ)の御誓(おんちか)いを頼みまいらせおわしますべく候(そうろう)。
正如房へつかわす御文
退縁悪知識(たいえんあくちしき)
退縁は、仏道修行において退歩・退転の縁となる要因。
悪知識は、謝った教えを説く指導者。
「往生など叶うはずがありません」
そのように申し聞かせようとする人たちがおられるそうです。誠にもって嘆かわしく気がかりな事です。たとえどのような学者の方々や、賞賛に値する人々がそのように仰っていても、それにびっくりなさってはなりません。それぞれの道において立派で尊敬すべき人であっても、教えに対する理解の仕方が異なり、従って修行の方法も異なっている人の仰る事は、私たちの目指す浄土への往生の為には、かえって妨げとなったり、誤った道へと進ませる結果にもなると申し上げるべきでしょう。
仏ならぬ凡夫の考えを顧みず、ひたすらに仏のお誓いをこそ頼みとなさい。