和尚のひとりごとNo760「法然上人御法語後編第二十三」
慈悲加祐(じひかゆう)
【原文】
まめやかに往生(おうじょう)の志(こころざし)ありて、弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を疑(うたが)わずして、念仏を申(もう)さん人は、臨終のわろき事は、大方(おおかた)は候(そうろ)うまじきなり。その故は、仏(ほとけ)の来迎(らいこう)し給(たま)う事は、もとより行者(ぎょうじゃ)の臨終正念(りんじゅうしょうねん)のためにて候(そうろ)うなり。それを心得(こころえ)ぬ人はみな、「我が臨終正念にて念仏申(もう)したらん時に仏は迎(むか)え給(たま)うべきなり」とのみ心得て候(そうろ)うは、仏の願(がん)をも信(しん)ぜず、経(きょう)の文(もん)をも心得ぬ人にて候(そうろ)うなり。
その故は、称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)に云(いわ)く、「仏(ほとけ)、慈悲(じひ)をもて加(くわ)え祐(たす)けて、心(こころ)をして乱(みだ)らしめ給(たま)わず」と説かれて候(そうら)えば、ただの時(とき)によくよく申(もう)しおきたる念仏によりて、臨終に必(かなら)ず仏は来迎し給(たま)うべし。仏の来迎し給(たま)うを見(み)たてまつりて、行者(ぎょうじゃ)、正念(しょうねん)に住(じゅう)すと申(もう)す義(ぎ)にて候(そうろう)。
然(しか)るに、前(さき)の念仏を空(むな)しく思(おも)いなして、よしなく臨終正念をのみ祈る人などの候(そうろ)うは、ゆゆしき僻胤(ひがいん)に入(い)りたる事(こと)にて候(そうろ)うなり。されば、仏(ほとけ)の本願(ほんがん)を信(しん)ぜん人は、かねて臨終を疑う心(こころ)あるべからずとこそ覚え候(そうら)え。ただ当時(とうじ)申(もう)さん念仏をば、いよいよ至心(ししん)に申(もう)すべきにて候(そうろう)。
大胡太郎へつかわすご返事
【御句の説明】
慈悲加祐(じひかゆう)
仏がその慈悲の力を加えて、衆生を助け守ること。
臨終正念(りんじゅうしょうねん)
いよいよ臨終を迎える時に、心が乱れることなく、生への諸々の執着にも苛まれることのない心境。
称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)
『称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう)』。唐の玄奘三蔵訳。『阿弥陀経』の異訳で、他に広く流通する鳩摩羅什訳『阿弥陀経』、サンスクリット原本、チベット訳など。
【意訳】
真面目に往生への志があって、阿弥陀仏の本願へ疑いを差し挟むことなく、念仏を申す人については、その臨終の際に心乱れ、往生がままならない事などあるはずがありません。何故かと申しますと、念仏する者が臨終せんとするその時に正しく定まった心となれるようにする、まさにその為に仏は来迎されるからです。そのことを心得ていない人たちは皆このように考えます。「私が臨終の際に正しく定まった心で念仏を申す時に限って、仏は来迎されるのである」。これは仏の願いも信ぜす、仏の言葉も理解していない人であります。
このように申すのは、『称讃浄土経』に「彼の仏は慈悲によって助け、その心が乱れぬようにしてくださる」と説かれており、平生によく申していた念仏によって、臨終のときには必ず仏は来迎されるのです。つまり仏が来迎されるのを目の当たりにして、念仏者が正しく定まった心を得、そこに安住するという道理なのです。
ところが、臨終に至るまでの普段の念仏は益のないものだと思い、根拠もなく臨終時の心をのみ祈る人などは、まことに道理に背いた道に入り込んでいることになります。従いまして、仏の本願を信じる人は、あらかじめ常日頃より臨終の際の心が仏の来迎によって定まるのを疑ってはならないと考えられます。ただただその時々に称える念仏を、なお一層に心を込めて称えるべきであります。
「大胡太郎へつかわすご返事」より。平生の念仏がいかほどに大切か、そして仏の来迎を信ずる気持ちこそが、臨終の際の正念をもたらすことを説き示してくださっている有り難い御法語です。