和尚のひとりごとNo775「法然上人御法語後編第二十四」

滅罪増上縁(めつざいぞうじょうえん)

【原文】
「五逆罪(ごぎゃくざい)と申(もう)して、現身(げんしん)に父を殺し、母を殺し、悪心(あくしん)をもて仏身(ぶっしん)を損(そこ)ない、諸宗(しょしゅう)を破(やぶ)り、かくの如(ごと)く重き罪を造(つく)りて、一念懺悔(いちねんさんげ)の心(こころ)もなからん、その罪によりて、無間地獄(むけんじごく)に堕(お)ちて、多くの劫(こう)を送りて苦(く)を受(う)くべからん者(もの)、終(おわ)りの時(とき)に、善知識(ぜんちしき)の勧めによりて、南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と十声(とこえ)称(とな)うるに、一声(いっしょう)に各々(おのおの)、八十億劫(はちじゅうおっこう)が間(あいだ)、生死(しょうじ)にめぐるべき罪を滅(めっ)して往生す」と説かれて候(そうろ)うめれば、「さほどの罪人(ざいにん)だにただ十声(とこえ)一声(ひとこえ)の念仏にて往生は、し候(そうら)え。まことに、仏(ほとけ)の本願(ほんがん)ならでは、いかでかさる事(こと)候(そうろ)うべき」と覚(おぼ)え候(そうろう)。

正如房へつかわす御文

koudai24

【御句の説明】
滅罪増上縁(めつざいぞうじょうえん)
極楽浄土へ往生を願う念仏者が、阿弥陀仏の本願力によってこうむる勝れた功徳に五つ数えられる。その第一がこの滅罪増上縁で、現世、この身で犯してしまった重い罪が、念仏を称えることによって滅する力強い因縁のこと。『観無量寿経』に説かれる。

五逆罪(ごぎゃくざい)
母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(覚りを開いた聖者)を殺すこと、仏の身体を傷つけて出血させること、修行僧の和合を乱し分裂させること、この五種の重罪を指す。

無間地獄(むけんじごく)
悪趣の中で最も恵まれない境遇である地獄界に八つを数え、その中で最下層に位置する地獄のこと。八つは、等活(とうかつ)、黒縄(こくじょう)、衆合(しゅごう)、叫喚(きょうかん)、大叫喚、焦熱(しょうねつ)、大焦熱、そして無間となる。”無間”とは地獄の責め苦が絶え間ないことを意味し、五逆罪および仏の教えを誹謗した罪を犯した者が必ず赴く世界であるとされていた。

善知識(ぜんちしき)
利益をもたらす善き友人、特に仏法への善きいざない手のことで、浄土教では往生浄土と念仏の導き手を指している。

【本文の意味】
「五逆罪と呼ばれる、父を殺し、母を殺め、悪意をもって仏の身体を傷つけ、諸々の仏教の教えを謗って和合を乱したり、このような重罪をこの生涯において犯しながらも、微塵も懺悔する心なく、間違いなくその罪過によって無間地獄へと堕ちて、まことに長い日々を、地獄の責め苦に苛まれるはずの者が、臨終の際に、善き導き手の勧めによって、南無阿弥陀佛と十回声に出して称えれば、その一声ごとに、通常であれば八十億劫もの長き間に迷いの生死を繰り返さざるを得ない罪さえも消滅して、ついに往生が叶う」、このように経に説かれているようでありますから、「それほどの重罪人でさえ、ただ十回一声のお念仏で往生することができる。まこと、阿弥陀仏の本願の力によるのでなければ、どうしてこのようなことがあり得ようか」と思う次第であります。

この身で確かに重い罪を犯してしまった者、かつて恐ろしい殺人鬼として恐れられたアングリマーラは、修行の末、遂に覚りを開いてこのように詠んだと伝えられています。
”以前には悪しき行いをした者であっても
のちに善によってそれを償うならば、その者はこの世の中を照らすだろう――”
諸縁和合すれば、我知らずに罪を犯してしまうのが偽らざる私たちの姿だとすれば、その罪業を滅し、浄らかなる仏国土へと導いてくださる仏の慈悲のありがたさが、そしてお念仏の尊さが改めて心に染みわたるような気がいたします。