和尚のひとりごとNo805「法然上人御法語後編第二十六」
仏神擁護(ぶっしんおうご)
【原文】
弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を深(ふか)く信じて、念仏して往生(おうじょう)を願う人をば、弥陀仏(みだぶつ)より始め奉(たてまつ)りて、十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)・菩薩(ぼさつ)、観音(かんのん)・勢至(せいし)、無数(むしゅ)の菩薩、この人を囲繞(いにょう)して、行住座臥(ぎょうじゅうざが)、夜昼(よるひる)をも嫌わず、影(かげ)の如(ごと)くに添(そ)いて、諸々(もろもろ)の横悩(おうのう)をなす悪鬼(あっき)悪神(あくじん)の便(たよ)りを払(はら)い除き給(たま)いて、現世(げんぜ)には横(よこ)さまなる煩(わずらい)なく安穏(あんのん)にして、命終(みょうじゅう)の時(とき)は極楽世界(ごくらくせかい)へ迎(むか)え給(たま)うなり。
されば、念仏を信じて往生(おうじょう)を願う人は、ことさらに悪魔(あくま)を払(はら)わんために、万(よろず)の仏(ほとけ)・神(かみ)に祈りをもし、慎しみをもする事(こと)は、なじかはあるべき。況(いわん)や、「仏(ほとけ)に帰(き)し、法(ほう)に帰し、僧(そう)に帰する人には、一切の神王(しんのう)、恒沙(ごうじゃ)の鬼神(きじん)を眷属(けんぞく)として、常(つね)にこの人を護(まも)り給(たま)う」と云(い)えり。
然(しか)れば、かくの如(ごと)きの諸仏・諸神(しょしん)、囲繞(いにょう)して護り給(たま)わん上(うえ)は、またいずれの仏(ほとけ)・神(かみ)かありて、悩まし妨(さまた)ぐる事(こと)あらん。
浄土宗略抄
【ことばの説明】
仏神擁護(ぶっしんおうご)
仏や神々による守護。
観音(かんのん)・勢至(せいし)
観音の原語アヴァローキテーシュヴァラは主に二通りに解釈される。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と訳される場合は衆生の声を聴く菩薩の意味。観自在菩薩(かんじざいぼさつ)と訳される場合は、観察することに自在なる菩薩の意味。阿弥陀仏の眷属(仕える者)としては、とりわけ慈悲に優れた菩薩。
勢至(マハースターマプラープタ)は絶大な力を獲得した菩薩、またその力を得せしめる菩薩の意。その智慧はあまねく一切に及ぶと言われ、阿弥陀仏の眷属としては優れた智慧を象徴する。
悪魔(あくま)
悪魔は本来、仏教に由来する言葉で、仏道を妨げる存在を指す。釈迦の成道を妨げんとしたマーラ(魔羅)に同じ。
鬼神(きじん)
人知を超えた超自然的存在。人に災いをもたらすこともあれば、幸いをもたらすこともある。
眷属(けんぞく
本来は一族、仏教では仏につき従う脇侍のこと。
【訳文】
阿弥陀仏の本願を信受して、念仏によって往生を願う人を、阿弥陀仏を始めとした全世界の諸々の仏や菩薩、また観音・勢至の両菩薩、そして数え切れないほどの菩薩たちがぐるりと囲み、平生においては昼夜を問わずに寄り添い、様々な悩みをもたらす悪しき存在による働きかけを払い除き、この現世においては不当なわずらいもなく平穏無事に、また命終わるときには極楽世界へと迎えて下さるのです。
ですから念仏を信じて往生を願う人は、悪魔を追い払おうとしてことさらに萬の仏や神々に祈願したり、物忌をすることなどどうして必要でありましょうか。ましてやこのように説かれています。
「仏に帰依し、教えに帰依し、僧伽に帰依する人に対しては、すべての神王が数限りない鬼神を眷属として従えて常にこの人を守護して下さる」
そのようなわけで、このような諸々の仏、神々が取り囲んで守護して下さるからには、これ以上どのような仏や神があって悩まさることがありましょうか。
臨終においては来迎が確かなものとなり、平生、日々の生活においては仏・菩薩の守護がある。念仏の功徳、まさにかくの如きものであるという元祖の有り難いお言葉です。日々、お念仏の道に精進して参りたいと思います。