和尚のひとりごとNo836「法然上人御法語後編第二十八」
順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)
【原文】
このたび輪廻(りんね)の絆(きずな)を離(はな)るる事(こと)、念仏に過(す)ぎたる事(こと)はあるべからず。この書(か)き置(お)きたるものを見て誹(そし)り謗(ほう)ぜん輩(ともがら)も、必(かなら)ず九品(くほん)の台(うてな)に縁(えん)を結び、互いに順逆(じゅんぎゃく)の縁(えん)虚(むな)しからずして、一仏(いちぶつ)浄土(じょうど)の友(とも)たらん。
抑(そもそも)機(き)をいえば五逆(ごぎゃく)重罪(じゅうざい)を簡(えら)ばず、女人(にょにん)・闡提(せんだい)をも捨てず。行(ぎょう)をいえば一念(いちねん)十念(じゅうねん)をもてす。これによりて五障(ごしょう)三従(さんじゅう)を恨(うら)むべからず。この願(がん)を頼(たの)み、この行(ぎょう)を励(はげ)むべきなり。
念仏の力(ちから)にあらずば、善人(ぜんにん)なお生まれ難(がた)し、況(いわん)や悪人(あくにん)をや。五念(ごねん)に五障(ごしょう)を消(け)し、三念(さんねん)に三従(さんじゅう)を滅(めっ)して、一念(いちねん)に臨終(りんじゅう)の来迎(らいこう)をこうぶらんと、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に名号(みょうごう)を称(とな)うべし。時処(じしょ)諸縁(しょえん)に、この願(がん)を頼むべし。あなかしこ、あなかしこ。
念佛往生要義抄より
【ことばの説明】
順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)
仏法に対する順縁(じゅんえん)と逆縁(ぎゃくえん)とが共に仏縁となること。順縁においては友好的に仏教との縁が結ばれ、逆縁においては仏教を信ぜず教えを誹謗しようとも、逆にそれが仏縁となっていく様を表している。この場合は浄土の教えに対するそれぞれの関係が結局は往生への機縁となることをいっている。
九品(くほん)の台(うてな)
九品蓮台(くほんれんだい)とも。極楽浄土に往生する際に、その者の能力に応じて化生する蓮の台が異なっている。それに九段階(九品)数えられることをいう。
五逆(ごぎゃく)重罪(じゅうざい)
五つ数えられる重罪のこと。一つに母を殺す、二つに父を殺す、三つに悟りに達した阿羅漢を殺す、四つに悪意をもって悟りを開いた仏を傷つける、五つに修行僧たちの和合を乱すこと。これらを犯せば死後ただちに無間地獄へと堕ちると説かれた。
闡提(せんだい)
梵語(イッチャンティカ icchantika)の音訳で詳しくは一闡提(いっせんだい)。強欲のあまり悟りを開く一切の要因
を持たない者を指す。
五障(ごしょう)三従(さんじゅう)
「五障」とは五つの障害のことで、女性が神々の長である梵天をはじめ、帝釈天、魔王、転輪聖王(てんりんじょうおう、全世界を統べる王)そして仏とはなれないことをいう。
「三従」とは、女性が結婚するまでは父に従い、婚姻後は夫に従い、その死後には息子に従うべきことをいう。
【訳文】
この身を最後に生死輪廻の束縛から離れる事に関して言えば、念仏より勝れた方法はありません。ここに私が書きおいたものを見て、謗り攻撃するような者であっても、必ず浄土の九品の蓮の台との縁を結び、己が信ずるとこと相異なる信心の者たちもそれぞれに仏縁が実り、同じ仏の浄土にて友となるのです。
そもそも浄土に救われる人の能力を申し上げるならば、五逆の重罪を犯した人も分け隔てなく、女性や一闡提の人たちをも捨て去ることはありません。救われる人が行うべき修行としては、ひとたびの念仏ないし十回の念仏によるとされるのです。この事に拠って五障や三従の境遇を恨むべきでもありません。この仏の本願に頼り、この念仏の行を懸命に行うべきです。
念仏の力に拠らなければ、善人でさえ往生は難しいのです。ましてや悪人については申すまでもありません。この五遍の念仏によって五障を消し、三遍の念仏で三従を滅して、一遍の念仏によって臨終時の仏の来迎を蒙るのだと、普段の生活の隅々にわたり仏の名号を称えて下さい。時と場所を選ばず、様々な機縁をつかまえて、この本願を頼りとするのです。
あなかしこ、あなかしこ。
法然上人にはこのようなお言葉も残されています。
「仏は臨終の際には聖衆とともに必ず来迎し、悪業としてそれを妨げるものはなく、魔縁として妨げるものはない。男女の性別を問わず、また善人と悪人の隔てなく、至心に阿弥陀仏を念ずればその浄土に生まれないことはない」
弥陀の本願は世の習いを超えて必ず救って下さる。この事がはっきりと示されています。
合掌