和尚のひとりごとNo861「法然上人御法語後編第二十九」

一蓮托生(いちれんたくしょう

【原文】
会者定離(えしゃじょうり)は常(つね)の習(なら)い、今始めたるにあらず。何(なん)ぞ深く歎(なげ)かんや。宿縁(しゅくえん)空(むな)しからずば同一蓮(どういちれん)に坐(ざ)せん。浄土の再会、甚(はなは)だ近(ちか)きにあり。今の別(わか)れは暫(しばら)くの悲しみ、春の夜の夢のごとし。信謗(しんぼう)ともに縁として、先に生まれて後(のち)を導(みちび)かん。引摂縁(いんじょうえん)はこれ浄土の楽しみなり。
夫(そ)れ現生(げんしょう)すら猶(なお)もて疎(うと)からず。同(どう)名号(みょうごう)を称(とな)え、同一(どういつ)光明(こうみょう)の中(うち)にありて、同聖衆(しょうじゅ)の護念(ごねん)を蒙(こうぶ)る、同法(どうほう)、尤(もっと)も親し。愚かに疎(うと)しと思(おぼ)し食(め)すべからず。
南無阿弥陀佛と称え給(たま)えば、住所は隔(へだ)つといえども、源空(げんくう)に親しとす。源空も南無阿弥陀佛と称えたてまつるが故なり。念仏を縡(こと)とせざる人は、肩を並べ、膝を与(く)むといえども源空に疎(うと)かるべし。三業(さんごう)、みな異なるが故なり。

十六門記より

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【ことばの説明】
一蓮托生(いちれんたくしょう)
念仏往生を願う者が、共に同じ極楽の蓮の台(うてな)にその身を任すこと。
「諸(もろもろ)の上善人と俱に一処(いっしょ)に会することを得ればなり」(『仏説阿弥陀経』)

会者定離(えしゃじょうり)
『仏遺教経(ぶつゆいぎょうきょう)』より。つぶさには「生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつえしゃじょうり)」といい、生命ある者が死ぬことは必然であり、従って出会った者も必ず別れることを意味する。

信謗(しんぼう)
仏の教えを信じること、また反対に信じずに謗(そし)ること。

引摂縁(いんじょうえん)
引摂(いんじょう)は仏・菩薩が極楽へと導くこと。引摂縁(いんじょうえん)とは往生を遂げた者が、かつてこの娑婆世界で縁を結んだ人を同じ極楽へと救いとること。


【訳文】
出会った者にも必ず別れの時が来るというのはこの世の理(ことわり)であり、今に始まったことではありません。どうして今更のように深く嘆き悲しむことがありましょうか。かつての自らの行いによる因縁が確かなものであるならば、その報いとして浄土の同じ蓮の上に坐すことができるでしょう。その浄土における再会は、実に間もなくの事です。今ここでの別れというのは、ほんのしばらくの間の悲しみであり、まるで春の夜の夢のようなはかないものに過ぎません。
み教えを信ずる者、信ぜざる者もありますが、これらを共々にご縁として、先に往生できる者が後に続く者たちを導こうではありませんか。ご縁ある人を浄土に迎え取るは、実にこれ浄土での楽しみというものです。
私たちはこの世界における関係でさえ浅からぬものです。ましてや同じ仏の名号を称え、同じ仏の御光のうちに包まれ、同じ極楽の仏・菩薩や聖者たちによる守護をこうむり、同じみ教えを奉ずる者同士は他に比べようもないほど近しい間柄なのです。それを浅はかにも縁遠いなどとゆめゆめお考えになってはなりません。
そうです、”南無阿弥陀佛”と称えれば、居場所は離れようとも、私源空とは近しい間柄なのです。それは私も”南無阿弥陀佛”と称えるからです。反して念仏をこととしない人は、たとえ肩をならべ、膝を交えていようとも、私とは縁遠い間柄なのです。それは身口意の行いすべてがかけ離れてしまっているからです。

建永二年(1207年)、遠く四国への流罪が決まった法然上人が、別れを惜しむ九条兼実に語った言葉として伝えられています。時を隔て、場所を離れても、必ず親しき間柄となれる。何故なら極楽への往生を期せんとの同じ志をもち、同じ仏の御名を称えているのですから。
合掌