和尚のひとりごとNo886「法然上人御法語後編第三十」

廻向(えこう)

【原文】
当時(とうじ)日(ひ)ごとの御念仏(おねんぶつ)をも、かつがつ廻向(えこう)しまいらせられ候(そうろ)うべし。亡き人のために念仏を廻向し候(そうら)えば、阿弥陀仏、光を放ちて地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)を照らし給(たま)い候(そうら)えば、この三悪道(さんなくどう)に沈みて苦(く)を受(う)くる者、その苦しみ休(やす)まりて、命(いのち)終(おわ)りて後(のち)、解脱(げだつ)すべきにて候(そうろう)。
大経(だいきょう)に、「若(も)し三途(さんず)勤苦(ごんく)の処(ところ)に在(あ)りて此(こ)の光明(こうみょう)を見(み)たてまつらば、皆(みな)休息(くそく)を得(え)て復(また)苦悩(くのう)なし。寿終(じゅじゅう)の後(のち)、皆解脱を蒙(こうぶ)らん」と云(い)えり。

勅伝第23巻

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【ことばの説明】
廻向(えこう)
pariṇāma(パリナーマ)より、「行き先を転じる」「変化する」の意。
自ら修めた行いの功徳(報い)を、他に差し向ける行為。

地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)
ともに避けるべき三つの苦しみの境涯で、「三悪道(さんなくどう)」または「三途(さんず)」に同じ。地獄道においては火炎に身を焼かれ、餓鬼道においては果てしなき飢えの苦しみに加えて刀杖によって迫害され、畜生道においては愚かにもお互いが食い争っている中に身を投じなければならない、とされる。


【訳文】
常日頃のお念仏においては、何はともあれ廻向をされるべきであります。亡き人のために念仏を廻向することで、阿弥陀仏はその身が放つ御光によって、地獄・餓鬼・畜生の境涯を照らし給い、この三つの悪道に堕ちた者たちの苦しみをやわらげ、その者たちがやがて生命終わるときに、苦しみから逃れることができるのです。
『大無量寿経』にはこのようにあります。
「もし三悪道の苦しみある処にあって、この仏の光明を見ることができたなら、皆安らぎを得て、再び苦しむことはない。寿命果てるのち、皆解脱を果たすであろう」と。

自らの行いの報いは自らが受けなければならない、しかしながら善き行いに関しては、その功徳を廻向することができる、仏教ではこのように考えます。そして数ある行為の中でも、この上ない功徳をもたらすとされるお念仏を廻向すれば、三悪道で苦しむ者たちさえも救うことができる、自他ともに利するお念仏を廻向することの大切さを示された法然上人のお言葉であります。
合掌