和尚のひとりごとNo989「称えるうちに雲晴れて」
私達は日々多くの方々のお世話になっています。直接的な人間関係だけではなく、間接的な物流もあります。毎日の食事一つ摂らせて戴くのも、沢山の人々が関わって食事を戴けるのです。食作法(じきさほう)と言って、食事を戴く前に唱える短いお経が御座います。
功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り
彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る
これは『五観(ごかん)の偈(げ)』と言われる経文の一つです。唐代の南山(なんざん)律宗(りっしゅう)の開祖・道宣(どうせん)が著した、『四分律行事鈔(しぶんりつぎょうじしょう)』を宋代に黄庭堅(こうていけん)が僧俗<僧侶と民衆>の為に分かり易く記したものです。日本では曹洞宗の開祖・道元禅師(どうげんぜんじ)の著作、『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』に引用されました。
「功の多少」を計るとは、目の前の食事がこうして出来てきたのは沢山の人々の手が加えられている、その結果であるという事。その事に感謝致しましょうという意味です。
「彼の来処」を量るとは、食べ物一つ一つが、料理として出来上がってきたその由来の事です。一体どの様な御縁で、こうして私の口に入る事になったのか?どの様に育てられ、どういう経緯で我々の口に入るに至ったのかという事です。お米ならば種から苗、そして田んぼで農家の方々育てられて、魚ならば海や川で泳いでいるところを漁師に捕まえられて、牛や豚なら手間暇かけて育てられたのです。何かしらの環境で育ち、そして縁あって今その命を私達が頂戴しているという事を知りましょうというのが、「彼の来処」を量るという意味です。
漁師の夫婦が法然上人に教えを授かったエピソードがあります。
「自分達は漁師で子供の頃から魚を獲って生活しています。朝夕、魚の命を絶って生業としているのです。殺生(せっしょう)を行う者は地獄に落ちて苦しんでいかねばならないと聞きますが、何とかこの苦しみを免れる方法はないのでしょうか。」と法然上人に悩みを相談しました。すると法然上人は、「あなた方の様な立場であっても阿弥陀様は必ずお救いくださいます。何よりも食事を戴かないと生活出来ない私達人間です。
人のお役にたっているのです。南無阿弥陀佛の一声一声を必ず阿弥陀様は聞いて下さいます。それによりお浄土に生まれて往く事が出来るのです。」と答えられました。これを聞いた夫婦は心が晴れ渡り感激で涙にむせび喜びました。その後は、昼間は漁に出て仕事に励みながら「南無阿弥陀佛」。
夜は夫婦共に声をあげて夜もすがらお念仏を唱え続けて暮らしていかれました。やがて臨終の後には往生を遂げる事が出来たと記されています。
<『法然上人絵伝 巻34(高砂浦)』>
私達は食事の際に生きとし生けるものの命を頂戴して暮らしています。食事に関わらず知らず知らずのうちに罪を造っている時もあるものです。報恩と感謝、反省を繰り返しながら、日々お念仏を申して心晴れやかに過ごして参りましょう。