和尚のひとりごとNo379「法然上人御法語後編第一」
後編 第1 難易二道
【原文】
浄土門(じょうどもん)というは、この娑婆世界(しゃばせかい)を厭(いと)い捨(す)てて、急(いそ)ぎて極楽(ごくらく)に生(う)まるるなり。
彼の国に生まるる事は、阿弥陀仏の誓いにて、人の善悪(ぜんなく)を簡(えら)ばず、ただ仏の誓いを頼み頼まざるによるなり。この故に道綽(どうしゃく)は、「浄土の一門(いちもん)のみ有(あ)りて通入(つうにゅう)すべき路(みち)なり」と宣(のたま)えり。されば、このごろ生死(しょうじ)を離(はな)れんと欲(おも)わん人は、証(しょう)し難き聖道(しょうどう)を捨てて、往(ゆ)き易(やす)き浄土を欣(ねが)うべきなり。
この聖道・浄土をば、難行道(なんぎょうどう)・易行道(いぎょうどう)と名づけたり。譬えを取りてこれを云うに、難行道は、険(けわ)しき道を、徒(かち)にて行(ゆ)くがごとし。易行道は、海路(かいろ)を船に乗りて行くがごとしと云(い)えり。
足萎(な)え、目(め)しいたらん人は、かかる道には向かうべからず。ただ船に乗りてのみ、向かいの岸には着くなり。
然(しか)るに、ころごろの我らは、智恵(ちえ)の眼(まな)しい、行法(ぎょうぼう)の足萎えたる輩(ともがら)なり。聖道難行(しょうどうなんぎょう)の険(けわ)しき道には、惣(そう)じて望みを絶つべし。ただ弥陀(みだ)の本願(ほんがん)の船に乗りて生死(しょうじ)の海を渡り、極楽(ごくらく)の岸に着くべきなり。
【言葉の説明】
難易二道
「難行道(なんぎょうどう)」と「易行道(いぎょうどう)」のこと。前者は実践するに困難な行法、対して後者は実践が容易い行法というのが本来の意味。
龍樹に帰せられる『十住毘婆沙論』「易行品」では、仏法に無量の門(法門)がある中、この現世において実践する方法に難易の二種があり、陸路に譬えられる難行道とは菩薩が自力で覚りを得んと精進する道、水路に譬えられる易行道とは信方便の易行、すなわち諸仏菩薩の名を名を聞き、称し、それらを憶念し、礼拝する道であるとされている。
これを承けた曇鸞は『往生論註』において浄土教の立場より仏道修行を大別した。すなわち行者の心が煩悩におおわれ、かつ仏不在の時代においては、阿毘跋致(あゆいおっち、成仏)を獲得するのは困難極まりない。一方で仏の信により阿弥陀仏の本願力(他力)を増上縁(ぞうじょうえん)として仏国土に往生できれば、その地で阿毘跋致を獲得することが可能となる。前者を自力の難行道であるとし、後者を他力の易行道であるとした。ここでは行法自体の難易ではなく、最終的に阿毘跋致(覚り)を得るにあたった難易が問われている。
増上縁とは念仏者が得られる三種の利益の一つで、滅罪の働きがある念仏の相続により、行者の罪が次第に滅し、最終的には臨終来迎を迎えられる事を指している。
浄土門(じょうどもん)
「聖道門(しょうどうもん)・浄土門」は釈尊一代の教説(全仏教の教え)を二種に大別する浄土宗の教相判釈。前者はこの現世の土(娑婆世界)にて覚りの果を得る事、後者は浄土に往生を遂げたのちに覚りを開かんとする事。
この教判は聖道浄土二門判、聖浄二門判と呼び、道綽が創設したものである。道綽は、一切衆生にはみな仏性があり、また今までの生死輪廻の繰り返しの中で数多くの覚者(仏)との出会いがあった筈である。それにも関わらず解脱できていないのは、二種の優れた教えである「聖道門・浄土門」に拠っていないからであるとして、前者の聖道門では仏果を得る事が難しい理由、すなわち後者の浄土門に拠るべき理由として、釈尊の時代より遠く隔たっている事、教えが深遠である事を挙げている。
さらに法然上人は「この宗の中に二門を立てることは、独り道綽のみには非ず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等の諸師、皆この意有り…此の中の難行道とはすなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり。難行・易行と、聖道・浄土とその言は異なりといえども、その意これ同じ。天台・迦才これに同じ。まさに知るべし」(『選択集』)として、この二門判がひとり道綽禅師によるものではなく、名立たる諸師も表現こそ異なっても同じ意を記しているとしている。また上記の如く、曇鸞『往生論註』の難行道・易行道に基づき、聖道門は難行道、浄土門は易行道にそれぞれ他ならないとしている。
娑婆世界(しゃばせかい)
梵語 sahā(サハー)より。仏教の世界観で釈尊が衆生を教化する世界のこと。大乗仏教においては仏はひとり釈尊のみならず、三千大千世界に様々な仏がいると考え、それぞれの仏が教化する世界が決まっているとする。そして娑婆世界はかつて釈尊が在世した我々の住むこの世界を指している。
「サハー」とは「耐え忍ぶ」の意で、娑婆世界を「忍土(にんど)」とも呼ぶ。
道綽(どうしゃく)
道綽禅師は北斉・河清元年(562年)から唐の貞観一九年(645年)にかけて在世。善導の師であり、隋・唐代にかけての浄土教者で浄土五祖の一人に数えられる。577年に北斉が北周によって滅ぼされ、北周武帝による廃仏に出会い、末法を実感する遠因となった。最初は『涅槃経』を研究したが、のちに浄土教に帰入、玄中寺に住し浄土教を宣揚、『観経』の講義は200遍に及んだという。
【現代語訳】
浄土門とは、我々の住むこの娑婆世界を厭い後にして、急いで極楽世界に生まれるということです。
その極楽国に生まれることは、阿弥陀仏の誓いによるもので、人の善悪には一切関わりがなく、我々がただ仏のその誓いを頼みにするかどうかにかかっているのです。だからこそ道綽禅師は「ただ浄土門の一門のみが通入すべき唯一の道である」と仰ったのです。そうであるからこそ、今の時代に、生死輪廻の苦しみの境涯から離れたいと願う者は、目覚めを得る事が難しい聖道門を捨て、往生し易い浄土門を志すべきなのです。
この聖道門・浄土門は、またそれぞれ難行道・易行道とも呼ばれます。譬えによってこれを説明するならば、難行道は険しい陸路を徒歩で進んでいくようなものであり、片や易行道は海路を船に乗って進み行くようなものであると言われます。
足も動かず、目も不自由な者は、この険しき道を選ぶべきではないでしょう。ただ船に乗る事で(行い易い道を行くときのみ)目指す向こう岸にたどり着けるのです。
ところで、今の時代の我々は、智慧を見通す眼も失い、修行を進める為の足も動かない者どもです。聖道門という実行し難く険しき道に対しては、もはやすべての期待を絶つべきです。ただ唯一阿弥陀仏の本願の船に乗って生死輪廻の迷いの海原を渡り、向こう岸にある極楽世界にたどり着くべきなのです。
浄土教の先師道綽禅師を引用しながら法然上人は仰っています。当今の我々は、行い難い聖道門を捨てて、行い易い浄土門に帰入すべきであると、この捨聖帰浄から浄土の御教えは始まるのです。