和尚のひとりごとNo501「法然上人御法語後編第六」
法然上人御法語後編第六「念仏付属(ねんぶつふぞく)」
【原文】
釈迦如来、この経の中(うち)に、定散(じょうさん) のもろもろの行を説き終わりて後(のち)に、正しく阿難( あなん)に付属(ふぞく)し給う時には、上に説くところの散善( さんぜん)の三幅業(さんぷくごう)、定善(じょうぜん) の十三観(じゅうさんがん)をば付属せずして、 ただ念仏の一行を付属し給ヘり。
経に曰(いわ)く、「仏(ほとけ)、阿難に告(つ)げ給わく、 汝(なんじ)好(よ)く͡是(こ)の語を持(たも)て。 是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。」
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を釈して宣( のたま)わく、「仏、阿難に告げ給わく、 汝好く是の語を持てより已下(いげ)は、正(まさ) しく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい)に流通(るずう) し給うことを明(あ)かす。上来(じょうらい)、定散両門( じょうさんりょうもん)の益(やく)を説くといえども、 仏の本願に望(のぞ)むれば、意(こころ)、衆生をして一向( いっこう)に専(もっぱ)ら弥陀仏(みだぶつ)の名を称( しょう)せしむるに在(あ)り。」
この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、 釈迦如来の、往生の行を付属し給うに、余の定善・ 散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるが故に、 正しく選(えらび)て本願の行を付属し給えるなり。
今、釈迦の教えに随(したが)いて往生を求(もと)むる者、 付属の念仏を修して釈迦の御心(みこころ)に適(かな)うべし。 これにつけても又よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろう) て、仏の付属に適(かな)わせ給うべし。『勅伝 第二十五』
【語句の説明】
定散(じょうさん)
定善・散善(じょうぜん・さんぜん)のこと。
そして定善とは、禅定において心が一定の対象に定まり、妄念・ 邪念が起きない状態で修する善行であり、散善とは、 散乱した平常心のまま修する善行のことを意味している。
特に『観無量寿経』に示される数々の往生に向けた実践行をこの「 定善・散善」の二種に分類する。
阿難(あなん)
釈尊の十大弟子のひとり。Ānanda(アーナンダ、阿難陀)。 釈尊の血縁(いとこ)であると伝えられ、 25歳で出家してから25年間仏の入滅まで常に近侍し、 仏の説法を記憶すること最も優れていたことから多聞第一( たもんだいいち)と言われる。釈尊の滅後、七葉窟での第一結集( 遺法の合誦)においては教え(経法)を誦したと伝えられる。
付属(ふぞく)
伝法、付法に同じ。師匠が弟子に教えの奥義を相伝し(付)、 後世に伝えるように託す(属)こと。
三幅業(さんぷくごう)
『観経』に説かれる西方浄土へ往生するための三種の行いで、➀ 世福(世俗の善)、②戒福、③行福の三つ。それぞれ、① 孝養父母(きょうようぶも)・奉事師長(ぶじしちょう)・ 慈心不殺(じしんふせつ)・修十善業(しゅじゅうぜんごう)、②受持三帰(じゅじさんき)・具足衆戒(ぐそくしゅかい)・ 不犯威儀(ふぼんいぎ)、③発菩提心(ほつぼだいしん)・深信因果(じんしんいんが)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・ 勧進行者(かんじんぎょうじゃ)がその内容とされている。➀ は仏法に未だ出会う前に世俗的な孝養に努め仁・義・礼・智・ 信といった徳目を行ずることで、②は戒律の実践、③ は大乗の発心を起こし修行に励み、 他にもよくそれを勧めることを意味している。
散善の三幅業と言われるように、 これらは散乱した平常心のまま修する行である。
十三観(じゅうさんがん)
『観経』 に示される定善十三観とは禅定によって精神が統一された状態で、 極楽世界の様相を目の当たりに観察するための行法(観想) のこと。順次➀日想観 ②水想観 ③地想(宝地)観 ④宝樹観 ➄宝池観 ⑥宝楼観 ⑦華座観 ⑧像想観 ⑨真身観 ⑩観音観 ⑪勢至観 ⑫普想観 ⑬雑想観。
➀日想(にっそう) 観は沈む夕陽を脳裏に焼き付けて観想すること。②水想( すいそう)観は澄んだ水が氷に変わり、 やがて瑠璃の大地となり荘厳される様相を観想すること。③地想( じそう)観(または宝地観 ほうじかん)は②の瑠璃の大地の荘厳をさらに観想すること。④ 宝樹(ほうじゅ) 観は極楽世界の宝樹の大きさや荘厳の有様を観想すること。⑤ 宝池(ほうち)観は極楽世界の池が湛える水が八種の功徳を具え、 七宝からなるなどの様相を観想すること。⑥宝楼(ほうろう) 観は五〇〇 億あると言われる極楽世界の楼閣の様子を観想すること。⑦華座( けざ)観は西方浄土の教主無量寿仏の姿を観察するにあたり、 まずは七宝の地の上に蓮の華を観想すること。⑧像想(ぞうそう) 観は⑦に続き、 蓮華座に坐する無量寿仏と左右の観音勢至の姿を観想すること。⑨ 真身(しんじん) 観はその無量寿仏の身の丈が六十万億那由他恒河沙由旬(ろくじゅうまんおくなゆたごうがしゃゆじゅん)にも及んで いるさまを観想すること。⑩観音観は観音菩薩の姿について、⑪ 勢至観は勢至菩薩の姿について同様に観想すること。⑫普想( ふそう)観は自分自身が極楽の蓮華座に坐する姿を観想すること。 ⑬雑想(ざっそう)観は上来の12観を踏まえて、 一丈六尺の無量寿仏像が池水の上に在す姿を観想すること。
経に曰(いわ)く、「仏(ほとけ)、阿難に告(つ)げ給わく…
出典『観無量寿経』
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を釈して…
出典『観無量寿経疏』
【現代語訳】
釈迦如来は『観無量寿経』の中で、定善・ 散善の数々の実践を説かれたのち、 まさしくアーナンダ尊者に教えの要を相伝する段になると、 それまでに述べてきた散乱したままの凡夫の日常心において行ずる 三種の善行でもなく、 三昧の精神状態にて行ずる極楽世界の目の当たりに観察しようとす る十三種の観想法でもなく、 ただ念仏の一行をのみ託されようとしています。
件の『観経』にはこのようにあります。
「釈尊は阿難に告げた。汝阿難はこの語をよく保ち続けるように。 この語を保つとは、無量寿仏の御名を保つということである」
善導和尚はこの一説を解釈して言われます。
「”釈尊は阿難に告げた。 汝阿難はこの語をよく保ち続けるように”に続く文は、 正しく釈尊が無量寿仏の名号をアーナンダに相伝し、 はるか後代の世まで伝えようとされていることを示している。 ここに至るまでに釈尊は、定善・ 散善の二種に分類される実践の利益を説かれてきたが、 阿弥陀仏の本願に照らしてみれば、釈尊の真意は、 衆生にただひたすらに阿弥陀仏の御名を称えさせることにあるので ある」
これらの定善・散善の数々の実践は、 ことごとく阿弥陀仏の本願ではないので、 釈尊が往生の為の行法を託されようとする際には、 念仏を除いた他の実践を託すことはなく、 反対に念仏は阿弥陀仏の本願であるので、 まさしくそれを選び取って本願の行に他ならない念仏を託されたの です。
今、釈迦如来の説かれた教えに従って往生を求める者は、 釈尊が相伝し託されようとした念仏をこそ修めて釈尊の御心に報い るのがよろしいでしょう。このことからしても又、 御念仏に精を出して、 釈尊が念仏を付属された御心に従うようにしてください。
元祖上人は『選択本願念仏集』でこのように述べておられます。
「故に知んぬ。 念仏往生の道は正像末の三時および法滅百歳の時に通ずということ を」
念仏の教えこそが、そして彼の仏の名号こそが、 後世まで残されるべき要である。 そしてそれは他ならぬ釈尊の真意であった。
釈迦如来、この経の中(うち)に、定散(じょうさん)
経に曰(いわ)く、「仏(ほとけ)、阿難に告(つ)げ給わく、
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を釈して宣(
この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、
今、釈迦の教えに随(したが)いて往生を求(もと)むる者、
【語句の説明】
定散(じょうさん)
定善・散善(じょうぜん・さんぜん)のこと。
そして定善とは、禅定において心が一定の対象に定まり、妄念・
特に『観無量寿経』に示される数々の往生に向けた実践行をこの「
阿難(あなん)
釈尊の十大弟子のひとり。Ānanda(アーナンダ、阿難陀)。
付属(ふぞく)
伝法、付法に同じ。師匠が弟子に教えの奥義を相伝し(付)、
三幅業(さんぷくごう)
『観経』に説かれる西方浄土へ往生するための三種の行いで、➀
散善の三幅業と言われるように、
十三観(じゅうさんがん)
『観経』
➀日想(にっそう)
経に曰(いわ)く、「仏(ほとけ)、阿難に告(つ)げ給わく…
出典『観無量寿経』
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を釈して…
出典『観無量寿経疏』
【現代語訳】
釈迦如来は『観無量寿経』の中で、定善・
件の『観経』にはこのようにあります。
「釈尊は阿難に告げた。汝阿難はこの語をよく保ち続けるように。
善導和尚はこの一説を解釈して言われます。
「”釈尊は阿難に告げた。
これらの定善・散善の数々の実践は、
今、釈迦如来の説かれた教えに従って往生を求める者は、
元祖上人は『選択本願念仏集』でこのように述べておられます。
「故に知んぬ。
念仏の教えこそが、そして彼の仏の名号こそが、
合掌