和尚のひとりごとNo714「法然上人御法語後編第二十」

行者存念(ぎょうじゃぞんねん)

ある時には世間の無常なる事を思いて、この世(よ)の幾程(いくほど)なき事を知れ。ある時には 仏(ほとけ)の本願(ほんがん)を思いて「必(かなら)ず迎(むか)え給(たま)え」と申(もう)せ。
ある時には人身(にんじん)の受け難(がた)き理(ことわり)を思いて、このたび虚(むな)しく止(や)まん事を悲(かな)しめ。「六道(ろくどう)を廻(めぐ)るに、人身を得(う)る事は、梵天(ぼんてん)より糸 (いと)を下(くだ)して、大海(だいかい)の底(そこ)なる針(はり)の穴を通(とお)さんがごとし」と云(い)えり。
ある時は「遭(あ)い難き仏法(ぶっぽう)に遭(あ)えり。 このたび出離(しゅっり)の業(ごう)を植(う)えずば、いつをか期(ご)すべき」と思うべきなり。ひとたび悪道(あくどう)に堕(だ)しぬれば、阿僧祇劫(あそうぎこう)を経(ふ)れども、三宝(さんぼう)の御名(みな)を聞かず。いかに況(いわん)や、深く信ずる事を得(え)んや。
ある時には、我が身(み)の宿善(しゅくぜん)を悦(よろこ)ぶべし。かしこきもいやしきも、人(ひと)多(おお)しといえども、仏法を信じ、浄土(じょ うど)を欣(ねが)う者は希(まれ)なり。信ずるまでこそ難(かた)からめ、謗(そし)り憎(にく)みて悪道の因(いん)をのみ造(つく)る。
然(しか)るにこれを信じ、これを貴(たっと)びて、仏(ほとけ)を頼(たの)み、往生(おうじょう)を志(こころざ)す。これ偏(ひとえ)に宿善(しゅくぜん)の然(しか)らしむるなり。ただ今生(こんじょう)の励(はげ)みにあらず。往生すべき期(とき)の至(いた)れる也(なり)と、頼(たの)もしく悦(よろこ)ぶべし。かようの事を、折(おり)に随(したが)い、事(こと)に依(よ)りて思(おも)うべきなり。
『十二箇条問答』

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行者存念(ぎょうじゃぞんねん)
念仏行者が心掛けるべき事。

阿僧祇劫(あそうぎこう)
”阿僧祇(あそうぎ)”は梵語”a-saṃkhya(アサンキャ)”の音写語で「数え切れない(無数)」の意。
”劫(こう)”は梵語”kalpa(カルパ)”の音写語で、インドで最も長い時間単位を表わす。
したがって阿僧祇劫は、とてつもない長い時間を意味する。

折に触れてこの世間が常ならざることを思い、この人生がさほどは長くはないことを弁えよ。
またある時には仏の本願を思って「必ず私を極楽へ迎え取って下さい」と申せ。
ある時には人として生を受けることが難しいという道理を思い、自分の人生が何の成果を生まずに意味もなく果てるかも知れぬと悲しめ。「六道の世界を輪廻転生していく中で、人の身を得るのは、天界のブラフマー神が大海原に向けて糸を垂らして、海底の針の穴に通そうとするようなものである」、このように説かれている。
またある時には「私は出遭い難い仏の教えにであえたのだ。この生涯において出離解脱の為の業(おこない)をしなければ、またいつの日にかそれを期待出来よう」と心に思うべきである。一度悪しき境涯に生まれ変わってしまえば、数え切れぬほどの長い時間を経ても、ついに仏法僧という三つの宝の名前を耳にする機会もないだろう。それであればそれらを深く信ずることなど出来ようか。
またある時には自ら行ってきたであろう善き行いを喜べ。この世には位の高い人たちもいれば、身分卑しき人たちもたくさんいるが、その中で仏の教えを信じ浄土を願う者はまれである。信じることは難しいとしても、かえってその教えを謗り憎んで悪しき境涯へ堕ちていく原因を造っている者たちは多い。
そうした中であるにも関わらず、汝は浄土の教えを信じて、これを尊び、彼の仏を頼んで、往生を志している。これはただただ前世において積み重ねてきた善き行いのおかげである。ただ今生における汝の努力だけの賜物ではない。今こそ、往生へと向かう機縁が巡ってきたのだ、そのように頼もしく思い喜ぶことだ。このように折に触れ、事柄に応じ、心に思うべきである。


”ある時には、我が身の宿善を悦ぶべし”
思い立ったその時に、浄土のみ教えとの出会いを心に思い喜べ。教えと出会えたことにより、既に救いへの道は開かれている。元祖上人のお言葉であります。