和尚のひとりごとNo821「法然上人御法語後編第二十七」
仏神擁護(ぶっしんおうご)
【原文】
宿業(しゅくごう)限りありて受(う)くべからん病(やまい)は、いかなる諸(もろもろ)の仏(ほとけ)・神(かみ)に祈るとも、それによるまじき 事(こと)なり。祈るによりて病も止(や)み、命(いのち)も延(の)ぶる事あらば、誰(たれ)かは一人(いちにん)として病(や)み、死(し)ぬる人あらん。
況(いわん)やまた、仏(ほとけ)の御力(おんちから)は、念仏(ねんぶつ)を信(しん)ずる者(もの)をば、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と云(い)いて、宿業限ありて重く受くべき病を軽(かろ)く受けさせ給(たま)う。況や非業(ひごう)を払(はら)い給 (たま)わんこと、ましまさざらんや。
されば念仏を信ずる人は、たといいかなる病を受(う)くれども、「皆(みな)これ宿業なり。これよりも重(おも)くこそ受(う)くべきに、仏の御力(おんちから)にて、これほども受(う)くるなり」とこそは申(もう)すことなれ。
我等(われら)が悪業(あくごう)深重(じんじゅう)なるを滅(めっ)して極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)するほどの大事(だいじ)をすら遂(と)げさせ給(たま)う。まして此(こ)の世(よ)に、幾程(いくほど)ならぬ命(いのち)を延(の)べ、病を助(たす)くる力、ましまさざらんやと申(もう)す事なり。されば、「後生(ごしょう)を祈り、本願(ほんがん)を頼(たの)む心も薄(うす)きひとは、かくのごとく、囲繞(いにょう)にも護念(ごねん)にもあずかる事なし」とこそ善導(ぜんどう)は宣(のたま)いたれ。同じく念仏すとも、深く信(しん)を起して穢土(えど)を厭(いと)い、極楽を 欣(ねが)うべき事なり。
浄土宗略抄
【ことばの説明】
転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)
「重きを転じて軽く受く」と読み、仏によって本来受けるべき重い罪の果報が転換され、軽く受けさせるように仕向けて下さること。
宿業(しゅくごう)
現世において受けるべき報いの原因となった前世における行い(主に悪業)のこと。
非業(ひごう)
前世の行いが原因として特定できない報いのこと。
穢土(えど)
穢れに満ちた清らかならざるこの世界のこと。
【訳文】
前世の悪業の報いとして定まり、当然受けるべき病について、いかに神や仏に祈ったところで、その祈りが効果をあらわすことはないでしょう。もし祈ることで病が癒え、寿命が延びることがあるならば、誰一人として病に犯され、死んでいく人はいなくなるでありましょう。
もちろん、また仏のお力は、念仏を信じる者については「重きを転じて軽く受く」といって、本来前世に作した悪業の報いとして定まっているはずの病を、軽く受けさせるようにしてくださいます。ましてや前世の悪業によらないいわれなき災いに関しては、なおさら防ぎ払ってくださらないことなどありましょうか。
したがって念仏を信じる者は、たとえその身でいかなる病を受けることになろうとも、「皆これは私の身がかつて行った行為の報いなのである。これよりももっと重く重く受けるはずだったが、仏さまのお力によってこの程度で済んでいるのだ」と考えるべきなのです。
私たちのかつての行いがまことに深く重く罪深いものであっても、それを消滅させて、極楽世界に往生させてくれるほどの大きな事を成し遂げて下さる、それが仏さまであります。ましてやこの世で、幾ほどかの寿命を延ばして、病を癒えさせることくらいの力が無いはずはないというものです。ですから「来世の安楽を願い、本願にたよる気持ちの薄い人は、このように、仏菩薩が我が身を包んで下さることもなく、その守護をこうむることもないのである」このように善導大師は仰られたのです。同じように念仏をするのでも、心より信心を起こし、汚れたこの世界を厭い、極楽世界を願うべきなのです。
仏の本願の御力を信ずる気持ち、それが強まれば強まるほど、我が身に降りかかる災いに対しての捉え方も変わってくるかも知れません。この御法語に示される元祖のお言葉をしっかりと受け止めたいと思います。