法然上人御法語第一

第1 難値得遇(なんちとくぐう)

~教えに出会えたありがたさ~

 

【原文】

それ流浪三界(るろうさんがい)のうち、何(いず)れの界(さかい)に趣(おもむ)きてか 釈尊(しゃくそん)の出世(しゅっせ)に遇(あ)わざりし。輪廻四生(りんねししょう)の間(あいだ)、何れの生(しょう)を受けてか 如来(にょらい)の説法(せっぽう)を聞きかざりし。

華厳開講(けごんかいこう)の莚(むしろ)にも交わらず、般若演説(はんにゃえんぜつ)の座にも連ならず、鷲峰説法(じゅぶせっぽう)の庭にも臨まず、鶴林涅槃(かくりんねはん)の砌(みぎり)にも至らず。我れ舎衛(しゃえ)の三億の家にや宿りけん。知らず、地獄八熱(じごくはちねつ)の底にや住みけん。恥ずべし、恥ずべし。悲しむべし、悲しむべし。

まさに今、多少曠劫(たしょうこうごう)を経ても生まれ難き人界(にんがい)に生まれ、無量億劫(むりょうおっこう)を送りても遇い難き仏教に遇えり。釈尊の在世(ざいせ)に遇わざる事は悲しみなりといえども、教法流布(きょうぼうるふ)の世に遇う事を得たるは、これ悦(よろこ)びなり。譬えば目(め)しいたる亀の、浮き木(うきぎ)の穴に遇えるがごとし。

我が朝(ちょう)に仏法の流布せし事も、欽明(きんめい)天皇、天(あめ)の下を知ろしめして十三年、壬申(みずのえさる)の歳(とし)、冬十月一日、初めて仏法渡り給(たま)いし。それより前(さき)には、如来(にょらい)の教法(きょうぼう)も流布せざりしかば、菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)いまだ聞かず。

ここに我等、いかなる宿縁(しゅくえん)に応え、いかなる善業(ぜんごう)によりてか、仏法流布の時に生まれて、生死解脱(しょうじげだつ)の道を聞く事を得たる。

然るを、今、遇い難くして遇う事を得たり。徒(いたず)らに明(あ)かし暮らして止(や)みなんこそ悲しけれ。

☆出典 「登山状」昭法全四一六

 

【ことばの説明】

流浪三界(るろうさんがい)

大海で波に押し流されるように、迷える衆生(生き物)が苦しみや悩みにほんろうされて生きているさま。三界とは三つの世界。欲望が強い者が住む「欲界」と、欲は離れたが、美しさや姿かたちにとらわれた者が住む「色界」と、欲も色も離れた神々が住む「無色界」の事。

 

華厳開講(けごんかいこう)鶴林涅槃(かくりんねはん)

かつてお釈迦が悟りを開かれて最初に説いたのが『華厳経』の教えだった。しかしあまりに難解だった為、わかりやすい『阿含経』を説いた。そののち人々の理解の度合いに応じて、『般若経』や『法華経』、『涅槃経』などを段階的に説いたと言われている。

ここで法然上人は、

法然上人ご自身がいままでに無数の生まれ変わりを繰り返してきたにも関わらず、仏教を開いた釈迦が説法する場にも居合わすことができず、会うことすら叶わなかったことを心から嘆かれているようだ。

 

舎衛(しゃえ)

古代インドのコーサラ国の首都シュラーヴァスティーのことで、釈迦がその生涯で最も長く滞在し、多くの教えを説いたとされる仏縁の厚い土地。数多くの仏典で釈迦の説法の舞台となった。

 

地獄八熱(じごくはちねつ)

熱と焔で苦しめられる八種の地獄。八大地獄のこと。

 

欽明(きんめい)天皇(五一〇~五七一)

第二九代天皇。その治世中、朝鮮半島の百済王が仏像や経典を献じ、日本に初めて仏教が渡来したと伝えられている。

 

菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)

覚りへと至る道、つまり仏教の教えや修行のこと。

 

 

【現代語訳】

私自身も、いままで〈三界〉といわれる苦しみや悩みの尽きることのない世界をさまよい、何度も何度も生まれ変わりを繰り返してきた。

それなのに、私はついに仏教を開かれたあの釈迦が説法する場に参加する機会に恵まれず、お会いすることもかなわなかった。

例えば、釈迦が、インドのガヤ村の菩提樹の下で悟りを開いたのち、最初に説かれた〈華厳の教え〉にも、さらにのちになって説かれた〈空の智恵の教え〉にも、あるいは<グリドラクータ山(鷲の峰)で8年かけて説法された法華経の教え>にも、<サーラ双樹のもとで説かれた最後の説法である涅槃の教え>にも、ついに間に合わなかった。

どうしてなのか?

あれほど生前の釈迦とご縁の深かったシュラーヴァスティー国の住民九億人のうちにさえ存在した、ついに釈迦の名前さえ聞かなかったという縁薄き三億人に、私自身がが含まれていたとでもいうのか?

あるいは、まさにその時この世ならぬ〈地獄〉の底で苦しみの境涯にあったとでもいうのか?

ああ、あまりにも恥ずかしいことだ! あまりにも悲しいことではないか!

しかしながら、果てしなく多くの生まれ変わりを経て、今まさに、他ならぬ人間として生を受けたのだ。そして計り知れないほどの長い時間をかけてもめぐり合うことの難しいとさえ言われる、仏の教えにめぐり合えたのだ。

かの釈迦が生きて、実際に説法されている時にはお会いできなかったことは残念だが、仏の教えが広まっている世界にこのように生を受けられたことは、まさにこの上ない喜びである。

もしこれを喩えるならば、大洋の深海の底に住む目が不自由な一匹の亀が、ただ闇雲に空気を求めて遥か水面を目指したところに、たまたま流れてきた流木に空いた小さな穴から、頭を水面に出して呼吸することができたとするならば、まさにこれと匹敵するくらいの確率でしかない偶然なのだ。

そもそも、思い返してみれば、私たちの国の長い歴史の中で、日本に仏教が伝わったのは〈欽明天皇の治世十三年目の冬、十月一日〉であり、それ以前に仏の教えが存在したわけではない。それより以前は、〈悟りへ至る道〉である仏教について、この国で知る者はいなかったのだ。

どのような前世からの縁によるものか? どのような善い行いを積み重ねてきた結果だというのか? 私たち自身には知る由もないが、なんと私たちは、苦しみや迷いの境遇から脱け出し離れる道である仏教をたずね実践することができるのである。

それなのに、ただなんとなくぼんやりと日々を過ごそうとしている。

これをやめられないことこそ、悲しむべきことではないか?

 

 

さて、ここに法然上人は残されている内容について、私が大切だと感じるのは、法然上人の仏法に対する熱い思いと情熱です。

確かに、いくら憧れてもいくら焦がれても、もう釈迦族に生を受けた覚者ゴータマブッダの生身の説法を聞くことはかなわないかもしれません。しかしながら私たちには、釈迦が残された言葉があり、教えを実践する環境があります。果てしない生まれ変わりの中で、このようなご縁に恵まれたことは、まさにぎょうこうであり、文字通り有難いことである。

法然上人はそう仰りたいのではないでしょうか?

合掌