和尚のひとりごとNo889「法然上人御法語後編第三十一」
還来度生(げんらいどしょう)
【原文】
さように、空事(そらごと)を巧(たく)みて申(もう)し候(そうろ)うらん人(ひと)をば、かえりて憐(あわ)れむべきなり。さほどの者の申(もう)さんによりて念仏に疑(うたが)いをなし、不信(ふしん)を起(お)こさんものは、言(い)うに足(た)らぬほどの事(こと)にてこそは候(そうら)わめ。
大方(おおかた)、弥陀(みだ)に縁(えん)浅く、往生(おうじょう)に時(とき)至(いた)らぬ者は、聞けども信(しん)ぜず、行(おこな)うを見ては腹を立て、怒(いかり)を含みて妨(さまた)げんとする事にて候(そうろ)うなり。その心(こころ)を得て、いかに人申すとも、御心(おんこころ)ばかりは動(ゆる)がせ給(たま)うべからず。強(あなが)ちに信(しん)ぜざらんは、仏(ほとけ)、なお力及び給(たま)うまじ。いかに況(いわん)や凡夫(ぼんぶ)の力、及び候(そうろ)うまじき事なり。
かかる不信(ふしん)の衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せんと思(おも)わんにつけても、疾(と)く極楽(ごくらく)へ参りて、覚(さと)りを開きて、生死(しょうじ)に還(かえ)りて、誹謗不信(ひほうふしん)の者をも渡して、一切衆生(いっさいしゅじょう)、あまねく利益(りやく)せんと思(おも)うべき事にて候(そうろ)うなり。
勅伝第28巻
【ことばの説明】
還来度生(げんらいどしょう)
還来は、この世へ還かえり来ること。阿弥陀仏の浄土へ往生を果たしたのち、再びこの世に還ること。
度生は、衆生を彼岸へと渡すこと。衆生に覚りの利益をもたらすこと。
【訳文】
そのようにたくらみを持って絵空事を言う人については、かえって憐れみを持つべきです。そのような程度の者の言葉で、念仏を疑い、不信を念を起すことは、あえて口にする必要もないほど愚かしいことでありましょう。
たいていの場合、阿弥陀仏との縁がいまだ浅く、往生を期するに時が熟していない者は、聞いても信ぜず、往生に向けた行いを見ては腹を立て、怒りをもってそれを妨害しようとするものです。このことわりを弁えて、どのような人が申すのを聞いても、そのお心だけは動かされてはなりません。信ずる事を頑なに拒む人には、仏の力も及びません。ましてや私たち凡夫の力をもって、いかんともし難いものなのです。
このような信ぜざる人々に利益をもたらそうと思うにしても、まずは極楽へと往生を遂げ、かの地で覚りを開き、再び生死輪廻の世界へと戻り、教えを謗り信じない人々をも彼岸の岸辺へと渡し、全ての衆生にもれなく利益をもたらそうと考えるべきなのです。
無智の者どもに対しては、その無智ゆえに念仏のみを勧めたという噂に対して、法然上人がお答えになったことばです。人々の言葉に惑わされず、他ならぬ仏の本願を信じ順ずることこそが往生への道であり、大切な信心を失ってはならないことがさとされています。
合掌