御法語

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法然上人御法語第二

第2 立教開宗(りっきょうかいしゅう)

~このわたくしにも身を寄せることができる教えがあった..実践可能な道があったのだ!~

 

【原文】

おおよそ仏教おおしといえども、所詮(しょせん)戒定恵(かいじょうえ)の三学(さんがく)をば過ぎず。いわゆる小乗(しょうじょう)の戒定恵、大乗(だいじょう)の戒定恵、顕教(けんぎょう)の戒定恵、密教(みっきょう)の戒定恵なり。

然(しか)るに我がこの身は、戒行(かいぎょう)において一戒をも持(たも)たず、禅定(ぜんじょう)において一つもこれを得ず。人師(にんじ)釈して、「尸羅(しら)清浄ならざれば三昧(さんまい)現前(げんぜん)せず」と云えり。

又、凡夫(ぼんぶ)の心は物に従いて移り易し。譬(たと)えば猿猴(えんこう)の、枝に伝うがごとし。実(まこと)に散乱して動じやすく、一心静まり難し。無漏(むろ)の正智(しょうち)何によりてか発(おこ)らんや。もし無漏の智剣(ちけん)なくば、いかでか悪業煩悩(あくごうぼんのう)のきずなを断たんや。悪業煩悩のきずなを断たずば、何ぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を解脱(げだつ)する事を得んや。悲しきかな、悲しきかな。いかがせん、いかがせん。

ここに我等ごときは、すでに戒定恵の三学の器(うつわもの)にあらず。この三学の外(ほか)に、我が心に相応する法門(ほうもん)ありや、我が身に堪えたる修行やあると、よろずの智者に求め、諸(もろもろ)の学者に訪(とぶら)いしに、教うるに人もなく、示すに倫(ともがら)もなし。

然る間、嘆き嘆き経蔵(きょうぞう)に入り、悲しみ悲しみ聖教(しょうぎょう)に向いて、手ずから自ら披(ひら)き見しに、善導和尚(ぜんどうかしょう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)の、「一心に専(もっぱ)ら弥陀の名号(みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者(もの)、これを正定業(しょうじょうのごう)と名づく、彼の佛の願に順ずるが故に」という文を見得て後(のち)、我等がごとくの無智の身は、偏(ひとえ)にこの文を仰ぎ、専らこの理(ことわり)を憑(たの)みて、念々不捨(ねんねんふしゃ)の称名(しょうみょう)を修して、決定往生(けつじょうおうじょう)の業因(ごういん)に備(そな)うべし。

☆出典「聖光上人伝説の詞」昭法全四五九

 

【ことばの説明】

立教開宗(りっきょうかいしゅう)

立教開宗とは「教えを立て、宗を開く」こと。

数ある「法然上人伝」が語るところによれば、上人が諸行(念仏以外の実践)を捨て、専修念仏(せんじゅねんぶつ) に帰したのは、承安5年(1175)の春3月であるとされ、浄土宗はこの年をもって「立教開宗」(浄土宗が開かれた年)としている。

そして今回ご紹介する御法語の後半に出る善導大師『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文

「一心に専(もっぱ)ら弥陀の名号(みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定業(しょうじょうのごう)と名づく、彼の佛の願に順ずるが故に」を「立教開宗の文」と呼び、非常に大切なものとしている。

法然上人はこの一文に出会うことで、大きな宗教的な転換(改心)をされたのである。

なぜならここには「聖者ではない凡夫であっても救われる」浄土門の道が、「弥陀の名号を念じ」という実践の容易な方法論とともに明示されており、法然上人自身がこの教えによって救われ、この教えこそが修行を完成できる環境ではない末法濁世(まっぽうじょくせ)の世界に最も適合した教えであり、教えを求める全ての人に開かれた教えであることを確信されたからである。

浄土宗は、法然上人のこの確信から始まった。

 

戒定恵(かいじょうえ)の三学(さんがく

仏教の実践を3つの側面から整理したもの。

 

第一に「戒」とは修行者に求められる行動の規範。仏教者が心がけるべきいましめ。

第二に「定」(禅定 ぜんじょう)とは心の散乱を防ぎ、平静に保つ実践法。

第三に「慧」(智恵)とは煩悩に曇らされない眼で、すべての物事の真実の姿を見極める智慧の事。

 

小乗(しょうじょう)

原語で「ヒーナヤーナ」といい、小さな(つまらない)乗り物の意味。

自己の宗教的な目的の達成を優先し、他者の救済や導きを軽視する立場とされる。

 

大乗(だいじょう)

原語で「マハーヤーナ」といい、大きな(優れた)乗り物の意味。

自己の悟りよりも他者救済を重視し、多くの人々を仏陀と同じ悟りに導く事を目指す立場とされる。

 

顕教(けんぎょう)

経典に記された言葉や文字で明らかに説き示された教え。密教以外の仏教のこと。

 

密教(みっきょう)

経典の言葉には明示されない真理を、秘密の教義と儀礼によって伝承しようとする立場。

 

人師(にんじ)釈して

権威ある仏教者を指す。ここでは天台教学の大成者である中国の天台大師智顗(538~597年)を指す。釈迦の一代仏教を段階的に組織立てて整理した当代一流の大学者であり、南岳慧思(なんがくえし)に親しく禅を学んだ実践者でもあった。

 

尸羅(しら)

サンスクリット語の「シーラ」の音を写した語で、三学の「戒」と同じ。

 

三昧(さんまい)

サンスクリット語の「サマーディ」の音を写した語で、三学の「定」と同じ。

心を一つのものに集中させて、安定した精神状態に入る事を目指すインドに伝統的な実践方法。

 

無漏(むろ)の正智(しょうち)

「漏(ろ)」とは煩悩の汚れの事、「無漏」は煩悩に汚されないものという意味で、「無漏の正智」とは、煩悩に汚されない眼で正しくあるがままに物事を見る事ができる聖者の智恵の事。

 

悪業煩悩(あくごうぼんのう)

「悪業」は仏教的な観点からみた〈悪い行い〉、「煩悩(クレーシャ)」は〈汚れた心〉という意味だが、仏教ではそれが転じて、私たちを悩まし、損ない、誤りに導く〈善くない心〉全般を「煩悩」と呼ぶようになった。

 

解脱(げだつ)

迷妄の束縛から開放されて完全に自由になること。仏教では〈悟り〉〈涅槃〉に同じ。

 

経蔵(きょうぞう)

三蔵の一つ。「三蔵」とは全ての仏教典籍を集成したもので、「経蔵」、「律蔵」、「論蔵」からなる。「経蔵」とは仏陀の言葉の集成である経典、「律蔵」とは修行者の行動規範や教団の運用規則の集成、「論蔵」とは経典の解釈から始まり、仏教の教えを思想的に純化させ哲学として独立させた典籍の集成。

ここでは「経蔵」は、巻物としての仏教典籍を集め収めた蔵のことを指している。

 

善導和尚(ぜんどうかしょう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)

善導和尚は唐代中国の学僧で、浄土思想家であり実践者。称名念仏(口で称える念仏)による凡夫の往生が可能である事を主著『観経疏(観無量寿経に対する註釈書)』で開示し、法然上人の浄土思想に多大な影響を与えた。法然上人は、「偏依善導(ひとえに善導による)」と言われたように、善導をみずからの思想と行動の軌範とし、最大の信頼を寄せていた。

 

【現代語訳】

同じ仏教でも、非常に数多くの教えが説かれているが、要するに仏教は〈戒定慧〉という「3つの実践」に収めることができる。

この考え方によれば、いわゆる小乗仏教には小乗仏教の〈戒定慧〉があり、それに対し大乗仏教には大乗仏教の〈戒定慧〉が存在する。同じく顕教には顕教の、密教には密教の、それぞれの〈戒定慧〉があるということになる。

しかしながら、じつのところ私は、このように仏道の基本柱である〈戒定慧〉という実践のうち、〈戒律〉ではただ一つの戒を守ることもできず、〈禅定〉を行っても何一つ上達することがない(ことを告白する)。

ある高僧が言うには、「戒を守りその身を清らかに保つことができないならば、禅定において心を集中させ、仏を眼前にありありとまみえる境地になど達することができない」ということだ。

また私たち凡夫(能力が特別に優れているわけではない普通の人)の精神状態というのは、常に目の前のものにとらわれて移ろいやすく、まるでサルが木の枝を次から次へと飛び移っていくかのようなもので、一瞬たりとも心を落ち着けて一つの対象に集中しているということができない。

そのような状態の私たちに〈正しくあるがままに物事を見る汚れのない智慧〉は、いったいどのように生じるというのか?

またもしこの〈優れた智慧〉がないとするならば、いかにして〈悪い行いや汚れた心〉を断ち切ることができるというのか?

そのようにして〈悪い行いや汚れた心〉を断ち切ることがなければ、いかにして生まれ変わり死に変わりを繰り返す私たちのこのからだを、迷いの束縛から解放させることができるというのか?

ああ、なんと悲しいことか。このままでは苦しみからの解放もかなわず、迷いの生死を繰り返すばかりではないか?

いったいどうすればよいというのか?

そうだ、私たちのような存在は、仏道修行の要である〈戒定慧〉という「3つの実践」に耐えることができる器量ではないのだ。

ではこの〈戒定慧〉以外に、愚かな私に見合う教えはあるだろうか?

この私に耐えられる修行はあるだろうか?

このように考え、たくさんの賢者や学者を訪ねたが、ついに答えは見出せず、道を示してくれる者はいなかった。

 

そうした中、悲嘆に暮れならがらも、経典を収蔵した蔵にこもり、今一度、仏や偉大な先達の尊い言葉の数々を、それこそ手あたり次第に一つ一つ隅から隅まで目を通してみた。

すると、中国の善導和尚が記した『観経疏』の中の一節に、

「ただひたすらに阿弥陀仏の名前を念じ、歩くときも、立ち止まるときも、あるいは座るときも、立ち上がるときも、およそ日常生活のあらゆる場面で、時間の長さにこだわらず、仏の名前を念ずることを止めないこと、これを〈正しく定まった行い〉であると名づける。なぜならば、これこそが阿弥陀仏の本願にかなった修行であるから」

という一文を見出したのだ。

この言葉に出会い、私たちのような智慧のない凡庸な存在は、ただひたすらにこの一文を仰ぎ、もっぱらここに言われた道理を信じて、常に口に出して称える念仏を実践し、それを保ち続けることで、必ず極楽往生が遂げられるように備えるべきであると思い至ったのである。

 

 

ここで法然上人は、自らの内面と、自らの置かれた状況とを、まことに正直に語っておられるように思う。ここでは、上人自身が仏道修行に耐えられる器ではないという。もっと言えば、修行を重ね学問を積んでも、一向に修行の完成が見えない焦燥と絶望さえ感じられる。

伝えるところによれば、上人はその持戒堅固な清僧ぶりが評価され、学徳兼備誉れ高いといわれていた。その上人ご自身が、自分は修行に耐えられず成仏もできない凡夫であると言い切っているのである。

また同時に、そうした存在であるにも関わらず、仏により救われる道があると明言されているのである。それが、阿弥陀仏の誓いを信じ、それに乗じようとする念仏の道である。

まずは思う。このインパクトはいかほどのものだったか?

当時、法然上人のもとにはせ参じた者たちは、確信したに違いない。

この方こそが本物の聖者であり学者ではないか?

もしくは、この方であれば全幅の信頼を寄せるに足る人物なのではないか?

 

当代一流の学者が、他人事ではない自身の問題として、仏法を考え抜かれた、そして末法の渦中にある当事者として、実存の問題を克服し見出された結論、それが念仏による往生の道だった訳である。

私は今一

度、当時の仏教界に法然上人の「立教開宗」が与えたであろう衝撃を思い、その意味をかみしめたいと思っている。

合掌

法然上人御法語第一

第1 難値得遇(なんちとくぐう)

~教えに出会えたありがたさ~

 

【原文】

それ流浪三界(るろうさんがい)のうち、何(いず)れの界(さかい)に趣(おもむ)きてか 釈尊(しゃくそん)の出世(しゅっせ)に遇(あ)わざりし。輪廻四生(りんねししょう)の間(あいだ)、何れの生(しょう)を受けてか 如来(にょらい)の説法(せっぽう)を聞きかざりし。

華厳開講(けごんかいこう)の莚(むしろ)にも交わらず、般若演説(はんにゃえんぜつ)の座にも連ならず、鷲峰説法(じゅぶせっぽう)の庭にも臨まず、鶴林涅槃(かくりんねはん)の砌(みぎり)にも至らず。我れ舎衛(しゃえ)の三億の家にや宿りけん。知らず、地獄八熱(じごくはちねつ)の底にや住みけん。恥ずべし、恥ずべし。悲しむべし、悲しむべし。

まさに今、多少曠劫(たしょうこうごう)を経ても生まれ難き人界(にんがい)に生まれ、無量億劫(むりょうおっこう)を送りても遇い難き仏教に遇えり。釈尊の在世(ざいせ)に遇わざる事は悲しみなりといえども、教法流布(きょうぼうるふ)の世に遇う事を得たるは、これ悦(よろこ)びなり。譬えば目(め)しいたる亀の、浮き木(うきぎ)の穴に遇えるがごとし。

我が朝(ちょう)に仏法の流布せし事も、欽明(きんめい)天皇、天(あめ)の下を知ろしめして十三年、壬申(みずのえさる)の歳(とし)、冬十月一日、初めて仏法渡り給(たま)いし。それより前(さき)には、如来(にょらい)の教法(きょうぼう)も流布せざりしかば、菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)いまだ聞かず。

ここに我等、いかなる宿縁(しゅくえん)に応え、いかなる善業(ぜんごう)によりてか、仏法流布の時に生まれて、生死解脱(しょうじげだつ)の道を聞く事を得たる。

然るを、今、遇い難くして遇う事を得たり。徒(いたず)らに明(あ)かし暮らして止(や)みなんこそ悲しけれ。

☆出典 「登山状」昭法全四一六

 

【ことばの説明】

流浪三界(るろうさんがい)

大海で波に押し流されるように、迷える衆生(生き物)が苦しみや悩みにほんろうされて生きているさま。三界とは三つの世界。欲望が強い者が住む「欲界」と、欲は離れたが、美しさや姿かたちにとらわれた者が住む「色界」と、欲も色も離れた神々が住む「無色界」の事。

 

華厳開講(けごんかいこう)鶴林涅槃(かくりんねはん)

かつてお釈迦が悟りを開かれて最初に説いたのが『華厳経』の教えだった。しかしあまりに難解だった為、わかりやすい『阿含経』を説いた。そののち人々の理解の度合いに応じて、『般若経』や『法華経』、『涅槃経』などを段階的に説いたと言われている。

ここで法然上人は、

法然上人ご自身がいままでに無数の生まれ変わりを繰り返してきたにも関わらず、仏教を開いた釈迦が説法する場にも居合わすことができず、会うことすら叶わなかったことを心から嘆かれているようだ。

 

舎衛(しゃえ)

古代インドのコーサラ国の首都シュラーヴァスティーのことで、釈迦がその生涯で最も長く滞在し、多くの教えを説いたとされる仏縁の厚い土地。数多くの仏典で釈迦の説法の舞台となった。

 

地獄八熱(じごくはちねつ)

熱と焔で苦しめられる八種の地獄。八大地獄のこと。

 

欽明(きんめい)天皇(五一〇~五七一)

第二九代天皇。その治世中、朝鮮半島の百済王が仏像や経典を献じ、日本に初めて仏教が渡来したと伝えられている。

 

菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)

覚りへと至る道、つまり仏教の教えや修行のこと。

 

 

【現代語訳】

私自身も、いままで〈三界〉といわれる苦しみや悩みの尽きることのない世界をさまよい、何度も何度も生まれ変わりを繰り返してきた。

それなのに、私はついに仏教を開かれたあの釈迦が説法する場に参加する機会に恵まれず、お会いすることもかなわなかった。

例えば、釈迦が、インドのガヤ村の菩提樹の下で悟りを開いたのち、最初に説かれた〈華厳の教え〉にも、さらにのちになって説かれた〈空の智恵の教え〉にも、あるいは<グリドラクータ山(鷲の峰)で8年かけて説法された法華経の教え>にも、<サーラ双樹のもとで説かれた最後の説法である涅槃の教え>にも、ついに間に合わなかった。

どうしてなのか?

あれほど生前の釈迦とご縁の深かったシュラーヴァスティー国の住民九億人のうちにさえ存在した、ついに釈迦の名前さえ聞かなかったという縁薄き三億人に、私自身がが含まれていたとでもいうのか?

あるいは、まさにその時この世ならぬ〈地獄〉の底で苦しみの境涯にあったとでもいうのか?

ああ、あまりにも恥ずかしいことだ! あまりにも悲しいことではないか!

しかしながら、果てしなく多くの生まれ変わりを経て、今まさに、他ならぬ人間として生を受けたのだ。そして計り知れないほどの長い時間をかけてもめぐり合うことの難しいとさえ言われる、仏の教えにめぐり合えたのだ。

かの釈迦が生きて、実際に説法されている時にはお会いできなかったことは残念だが、仏の教えが広まっている世界にこのように生を受けられたことは、まさにこの上ない喜びである。

もしこれを喩えるならば、大洋の深海の底に住む目が不自由な一匹の亀が、ただ闇雲に空気を求めて遥か水面を目指したところに、たまたま流れてきた流木に空いた小さな穴から、頭を水面に出して呼吸することができたとするならば、まさにこれと匹敵するくらいの確率でしかない偶然なのだ。

そもそも、思い返してみれば、私たちの国の長い歴史の中で、日本に仏教が伝わったのは〈欽明天皇の治世十三年目の冬、十月一日〉であり、それ以前に仏の教えが存在したわけではない。それより以前は、〈悟りへ至る道〉である仏教について、この国で知る者はいなかったのだ。

どのような前世からの縁によるものか? どのような善い行いを積み重ねてきた結果だというのか? 私たち自身には知る由もないが、なんと私たちは、苦しみや迷いの境遇から脱け出し離れる道である仏教をたずね実践することができるのである。

それなのに、ただなんとなくぼんやりと日々を過ごそうとしている。

これをやめられないことこそ、悲しむべきことではないか?

 

 

さて、ここに法然上人は残されている内容について、私が大切だと感じるのは、法然上人の仏法に対する熱い思いと情熱です。

確かに、いくら憧れてもいくら焦がれても、もう釈迦族に生を受けた覚者ゴータマブッダの生身の説法を聞くことはかなわないかもしれません。しかしながら私たちには、釈迦が残された言葉があり、教えを実践する環境があります。果てしない生まれ変わりの中で、このようなご縁に恵まれたことは、まさにぎょうこうであり、文字通り有難いことである。

法然上人はそう仰りたいのではないでしょうか?

合掌

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