浄土宗月訓カレンダー

和尚のひとりごとNo416「信頼はかたちのない財産」

 

 

 本年一月『「おはよう」笑顔かがやく』の中でも書きましたが、「無財(むざい)の七施(しちせ)」と言って、金品でなくても出来るお布施が『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経に説かれています。jyuunigatu

  「眼施(げんせ)」:澄んだ優しい眼差しで応じる事。

  「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」:和やかな優しい笑顔で接する事。

  「言辞施(ごんじせ)」:優しい思いやりのある言葉で接する事。

  「身施(しんせ)」:体で出来る事は進んでさせてもらう事。

  「心施(しんせ)」:心から愛情を注ぎ、思いやりの心で相手の立場になって接する事。

  「床座施(しょうざせ)」:座席や場所を譲る事。

  「房舎施(ぼうしゃせ)」:部屋を綺麗にしてお客様を招き入れ、不快な感じを与えない事。

 日々の暮らしの中では、相手に対する接し方や自分自身の行動で信頼関係が築き上げられ、それが目には見えないけれども大きな財産となってまいります。「無財の七施」はどちらかというと目に見えて分かる善業、善い行いです。「陰徳(いんとく)」という言葉があります。人の見ていないところでする善い行いで、その善業によって自身の徳を積むという事です。徳とは善い行いによって身に付く特性や結果として得られる善い報いの事です。人目に触れず善い事をするという意味合いが強いですが、積極的にプラスになる事をするのではなく、マイナスになる事をしないという心がけで、結果としてプラスになるという意味が本来の「陰徳」です。例えば電車内で体調の悪そうな人や高齢者を見かけた時に席を譲るのは「床座施」であり、「陰徳」ではなく「顕徳(けんとく)」になります。目に見えて分かる善い行いが「顕徳」。「陰徳」は、「もしかしたらここに誰か座るかも知れないと思って、初めから座らずに立っておく行い」を言います。「陰徳」の実践方法は色々ありますが、『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』という禅宗の書物には「人知れず仏様を拝む事が陰徳である」と説かれています。

 法然上人は「飾る心無くして、真(まこと)の心でお念佛を申しなさい」と示されました。ある晩、法然上人が夜中に起きて一人でお念仏を申していたのですが、人の気配を感じたので声に出してお念佛を称えるのを止め、法然上人はそのまま寝つかれました。どうしてお念佛を止められたかについて、法然上人は、「人は必ず人目を気にするものです。どんなに親しい間柄でも人目を気にし、飾る心というものを人間は持っています。そういう飾る心でお念佛を申しては心の底から素直に往生を願う事は難しいものです。人目を気にする事なく、飾る心を捨てて真心込めてお念佛申す事が大事です」と仰られました。

 人目を気にして良く見せようという着飾った気持ちでは誠実な心ではなくなります。日々の日暮らしの中でも人目を気にしてではなく、誰が見ていようと見ていまいと善い行いをする事で信頼は生まれてくるものです。常平生の行いは身につくものですから出来るだけ善い行いを心がけて過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo386「ちょっと不便でちょうどいい」

 携帯電話が普及し、街中では多くの人々が携帯電話を片手に話をしながら、或いはメールやラインを打っている姿をよく見かけます。電車内でも殆どの方が携帯電話を操作しています。電車内での通話は出来ないので、恐らく携帯電話内のコンテンツを利用したり、インターネットであらゆる情報を入手しているのだと思われます。携帯電話一つあれば、あらゆる情報を即座に入手する事が出来、どこに居ても様々な人たちと繋がる事が可能になりました。外出先で公衆電話を探し回るような事もなくなり、街中で電話ボックスを見かける事は殆どありません。2020jyuuitigatu


 携帯電話の無い時代には、友達の家に電話をする時も緊張したものです。友達が出るとは限らないからです。親、兄弟、電話を掛けた家に居る誰かが出るのです。誰が出ても良いように、「もしもし、私は〇〇ですが、△△さんのお宅でしょうか。︎︎さんは居られるでしょうか?」と話し出します。そのことで電話先の家族の方は、子供が誰と繋がっているのかを認識し、子供の友人関係を把握する事が出来ていました。しかし、今は携帯電話で直接特定の個人と繋がる事が出来ます。違う人が電話口に出る事は先ずありません。その事で親は子供が誰と繋がっているのかを把握しきれなくなってきているそうです。学校内の友達のみならず、インターネットを介して知り合った実際に会った事のない人や、行ったこともない所まで交友関係が広がっているからです。国内だけではなく、世界中の人々と繋がる事が出来るのは世界観が広がるので良い事でしょうが、直接相手を知らない分、事件につながる危険性もあります。


 お互いを理解し合うには何よりもコミュニケーションが大切です。電話でもコミュニケーションは取れますが、実際に会って話す事でお互いの人柄も理解し合え、信頼関係も築いていけるものです。「理解する」という事は、「お互いの距離を縮める」或いは、「相手の立場に立って考えられる事」を意味します。「理解する」を英語でunderstand(アンダースタンド)と言います。underは「〜の下に」と訳しますが、元々「〜の間」という意味があったそうです。Stand(スタンド)は「立つ」です。「相手の間に立つ」つまり「相手との距離を縮めます」というのが「理解する」という事です。


 便利な世の中になると、ついつい簡単に物事を済ませがちになります。実際に相手に会って、また日々の生活の中で粗末にしがちなコミニュケーションを大切に、相手の立場に立って考えられるように心がけていきたいものです。

和尚のひとりごとNo355「実りをいただく幸せ」

浄土宗のお勤めの一つに「十夜(じゅうや)法要」というお念仏を申す行事が御座います。「お十夜」「十夜講」「十夜念仏」とも言われますが、元々は陰暦の十月五日の夜から十五日の朝まで十日十夜に渡って勤められる法要でした。現在では十月から十一月にかけて、全国の浄土宗寺院で広く勤められています。

 この法要は、浄土宗で最も重要な経典の一つである『無量寿経』に、「この世において十日十夜の間、善行を行うことは、佛の国で千年間善行を積むことよりも尊い」と説かれている内容によって、その教えを実践したものです。御佛様の在します世界で善い事をするのは良い環境が整っているので行いやすいですが、悩み苦しみの多いこの世の中で善い事を行うのは非常に難しいものです。様々な欲望によって、時には自分勝手な考えをしてしまう場合もあります。また思い通りにいかないと腹を立ててしまったりするからです。そんな世の中で、十日十夜に渡って善行を修める事は非常に尊い行いとなるのです。10gatu

 “法要のいわれ”としては、今から550年程前の室町時代に、伊勢守(いせのかみ)平貞経(たいらのさだつね)の弟貞国(さだくに)が、京都天台宗の真如堂(しんにょどう)で勤められたのが始まりとされております。信仰篤き貞国公が出家を志した時、枕元に一人の高僧が立ち、出家せずとも今の身分のままで救われる阿弥陀様の功徳を説き聞かされ、出家をやめ、兄に代わって家督を継ぐことになりました。すると大いに繁栄し、そのお礼の心を込めて修めたものとも言われています。

その後、明応四年、1495年に浄土宗の大本山の一つである鎌倉光明寺の第9世・観譽祐崇(かんよゆうそう)上人が、後土御門(ごつちみかど)天皇に招かれ、宮中においてお念仏の御教えを説かれ、さらに真如堂の僧侶と共にお念仏を唱え、光明寺で法要を行うようになりました。これが浄土宗でのお十夜の始まりになっています。現在では十日十夜から短縮して勤められる場合が多いのですが、たった一日或いはわずか数時間のお勤めでも尊い行いであり、十声一声(とこえひとこえ)でも救われるお念仏であります。

 阿弥陀様が法蔵菩薩であった修行時に、お念仏を申す全ての人々を救うと誓われ、そのお誓いが叶い、誰もが救われていく道を私たちにお示しくださいました。そのことに感謝し、気候的に過ごしやすい実りの秋にお念仏申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo325「あまねくわたる仏のこころ」

ふみまよう こころの闇を てらしませ わしのみ山に のぼる月影

 

 冒頭の御歌は明治時代に生まれ、長野県に御座います大本山善光寺第119世・法主となられた大宮智栄(ちえい)尼公・大僧正(だいそうじょう)の御作です。智栄尼僧は女性の地位が低く見られていた時代に、女性の社会的地位向上や女性への教化活動を積極的に行い、社会教化活動に御尽力されたお方です。御歌を意訳すると、「闇路に迷う私を、あの山にのぼる月の光のように、如来様の御慈悲の光で心の中まで明るく照らし、お導きくださいませ」になります。

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 阿弥陀様の御光(みひかり)は念仏を申す者には、いつでも、どこでも、どこまでも放ってくださっており、常平生は「護念(ごねん)し給う」と説かれるように、念仏申す者をいつもお護りくださっているのです。

 或る方が法然上人に、「阿弥陀様はお念仏の声を聞いて、最期臨終の時にお迎えに来てくださると申します。では阿弥陀様に救われるのは生きて生活している時はないのでしょうか。やはり臨終の時だけなのでしょうか」と現世の利益(りやく)について尋ねられました。現世利益(げんぜりやく)とは、神仏を祈ることによって、今この世で授けられる「恵み」や「救い」、「幸せ」とお受け取りください。すると法然上人は、「平生の時から救われるのです」と答えられました。続けて、「それは阿弥陀様の在しますお浄土に往き生まれる事(往生)を願う心に偽りがなく、我が身の往生を疑わずに来迎を待つ人は必ず極楽に生まれるということは、『観無量寿経』に説かれている通りです。このような志のある人を阿弥陀仏は八万四千の光明を放って照らされるのです。平生の時に照らし始めて、臨終までお捨てになりません。ですからお念仏を申す者を救い取って捨てることがない誓約というのです」と説かれました。つまり、南無阿弥陀佛とお念仏を申す人は、常平生から阿弥陀様の御光に照らされて護られているのであり、最期臨終まで照らし続けてくださっているということなのです。

 法然上人は「死の縁は無量」と捉えられ、私たちはいつ、どこで、どの様に亡くなっていくかは分からない身であると示されました。しかし、いつどの様な形で死を迎えるかは分からなくとも、常日頃からお念仏を称えていればその一声一声に応じてくださっている阿弥陀様ですから、いついかなる時に死を迎えても大丈夫なのです。その為にも常平生のお念仏が大切であり、私たち自身が最期臨終まで称え続けるようにとお説きくださっているのです。

 最期は必ず阿弥陀様に迎えとっていただき西方極楽浄土に生まれさせていただける。また常平生は阿弥陀様が見護ってくださっていると共々に想いを寄せてお念仏申して過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo294「みんなに会える夏」

 2020hatigatu夏休み、お盆の帰省時期にもなりますと親戚が集まり、賑やかに過ごされる方も多いことでしょう。大切な人を家に招待する時はどんな気持ちで、どの様な準備をされるでしょうか。玄関や部屋の掃除をして、食事はどうしようか、飲み物やお菓子などは何を出そうかとあれこれ、おもてなしを考えられる事でしょう。そしてその方がやって来られると一緒に楽しい時間を過ごす事だと思います。

 

 月参りなどの際にお唱えする浄土宗の日常勤行(ごんぎょう)の中に四奉請(しぶじょう)という偈文(げもん)があります。

 奉請 十方 如来 入道場 散華楽

(ほうぜい しほう じょらい じとうちょう さんからく)

 奉請 釈迦 如来 入道場 散華楽

(ほうぜい せきゃ じょらい じとうちょう さんからく)

 奉請 弥陀 如来 入道場 散華楽

(ほうぜい びた じょらい じとうちょう さんからく)

 奉請 観音 勢至 諸大菩薩 入道場 散華楽

(ほうぜい かんにん せいし しょたいほさ じとうちょう さんからく)

 

 十方に在(ま)します如来様、仏様の御教えを説いてくださったお釈迦様、西方極楽浄土に在します阿弥陀様、阿弥陀様のお供をされる慈悲の観音菩薩様や智慧の勢至菩薩様、更に諸々の菩薩様方を、今お勤めしている場に華を散じてお迎えするというお経です。いわば、お客様を迎える為のおもてなしの偈文であります。

 諸々の菩薩様方には先立たれたご先祖様も含まれます。新暦では8月、旧暦では7月となるお盆の季節に、ご先祖様がこの世に帰ってくるという風習が御座います。迎え火を焚き、お盆のお供えをしてご先祖様を我が家にお迎えます。送り盆の時には、送り火を焚いてお浄土に再び帰って頂くのです。盂蘭盆会(うらぼんえ)という仏教の風俗習慣が元になっておりますが、浄土宗では西方極楽浄土に往かれた亡き方々、ご先祖様が戻ってきて我が家で過ごし、再びお浄土に帰っていただくとお受け取りください。

 会いたくて会いたくて仕方がない人とやっと出会えた時、気持ちは高揚し、心踊ります。その方の顔をもっと見たいと思い、その人の心に寄り添いたいと願います。こちらから会いに行けない人ならば尚更です。お念仏の御教えはこの世で命尽きて後の世、西方極楽浄土で亡き人と再会出来ると説きます。いずれまた会えた時の喜びを思い、再会出来る事を生きる生きがいにして共々にお念仏申して過ごして参りましょう。22

和尚のひとりごとNo264「人の輪が人の和に」

「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」<森信三(もりのぶぞう)>  森信三さんという方が遺されたお言葉です。明治時代の終わり頃に生まれ、大正、昭和と教育者として活躍し、平成4年に亡くなられた哲学者でもあります。2020hitigatu

 私達は生まれた時から沢山の人々に出会っています。幼少の時、少年時代、青年期は主に学校を中心に、成人してからは自身を取り巻く社会の中で、親兄弟以外にも先生と呼ぶ人、先輩、後輩、数えだしたら切りがない程多くの人達との出会いがあります。

人との出会いは、自分が歩んできた道で出会う人々です。ですからその道を歩まない人にとっては出会えない縁です。しかし会った人に対して、「出逢えた人」と受け止めるかどうかは本人次第であります。人と会う場合には「会う」と「逢う」の漢字が当てられます。「会う」とはただ単に人と人とが顔を合わせる場合、又は或る場所で対面する時に用います。「逢う」と記載すると、親しい人や思い入れがある人と顔を合わせたり、運命的な対面を意味する場合が多いようです。その時々に「逢うべき人だった」と受け止めるかどうかは自分の心一つという事になります。まして「一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」となるとどうでしょうか。

少しでもタイミングがずれると出逢えなかった縁かもしれない。そのように受け止めると、今この時に出逢えている人との繋がりに重みを感じるはずです。森信三先生のこの言葉は絶対的な真理というわけではありません。しかしそのように受け止める事で、人との繋がりや出逢った人との関係を大事にしていく心が育てられる事でしょう。  人は決して独りでは生きてはいけません。支え合って生きていかねばならないものです。どんなに強がっていても心くじける事があります。その時に支えてくださる人が側にいるだけでどんなに心強くなれる事でしょう。人と人ですから、仲の良い時もあれば、時には喧嘩する時もあるでしょう。

共に笑いあえる時もあれば、悲しみ憂える時もあるのが人の世であります。この世を世間(せけん)と言います。元は仏教語で、移り変わり壊れゆく迷いの世界の事を世間と言います。この世間では全て自分の思い通りに上手くいく事はなく、人との繋がりも然りです。しかしせっかく出逢った人との縁でありますからその縁を大事に、そこから人の輪、繋がりを大切にし、出来るだけ楽しく過ごしたいものです。

「一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に出逢えた人」と共に受け止めさせていただき、日々和やかに過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo236「たまには心も雨やどり」

 

  お念仏を修めていく方法、念仏信者が守るべき生活態度の一つに無間修(むけんじゅ)というものがあります。南無阿弥陀佛のお念仏を途切れる事なく毎日申し続けていくという事です。怠け心を治し、勇んで仏道に精進する心を育てさせていただくのが無間修(むけんじゅ)という修行です。法然上人はこの無間修を特に大切に思われていたようです。2020rokugatu

 人の心は絶えずうつろい易く、心穏やかに居続けることは難しいものです。浄土宗の説く称名念仏は、いつでもどこでも唱えて良いお念仏です。

行 住 坐 臥(ぎょう じゅう ざ が)と言って、歩いている時でも、座っている時でも、寝ている時でも、休んでいる時でも、ただ口に「南無阿弥陀佛」と唱えるだけで良いのです。心身ともに清らかな状態でなくても、晴れの日も雨の日も、嬉しい時も悲しい時も「南無阿弥陀佛」と唱えるのです。

 罪業を重ねずに日々を送れるのならば、それに越した事はありません。しかし*凡夫(ぼんぶ)の習い、常に貪瞋(とんじん)煩悩と言って欲張りな心や、腹立ちの心が起こる我が身であります。「随犯随懺(ずいはんずいさん)」と言って、犯す罪に対し、いつも懺悔(さんげ)して我が身の程を振り返る必要が御座います。そして腹が立ってもそのままでお念仏を間断(かんだん)なく、絶やさず相続し、欲の心が起こってもそのままで、お念仏を絶やす事なく申し続ける事が大切であります。人間とは勝手なもので、商売が繁盛すれば「忙しくて念仏など申せぬ」と言い、貧乏すればそれはそれで、「念仏どころではない」とお念仏申す事に対して何かを怠ける材料にしてしまうものです。全て自分の都合のいい様に過ごしてしまう私達です。例えば笊(ざる)で水を汲む事は可能でしょうか?笊は水を切る道具です。ですから水を汲もうとしても不可能です。桶に水を張って笊ごと浸(つ)からせるしかありません。それと同じく、煩悩が常に漏(も)れ出る我が身は、佛様の中に、この身このまま浸(つ)からせてもらうしかないのです。腹立ちや欲深い心があっても、ありのままで阿弥陀様の懐(ふところ)に飛び込み、身構えることなく、雨の日は雨宿りする様に、ゆっくりと自分のペースで続ける事が大事であります。

 

 怠らず行かば*千里(ちさと)の果ても見む 牛の歩みの よし遅くとも(『武家百人一首』)

 

 怠(おこた)らずに行けば、遠いと思われる千里(せんり)の道の果ても、いずれ見えるであろう。喩え牛の様に歩みが遅くても。のんびりとありのままの姿で、共々にお念仏を申して過ごして参りましょう。

 

 

*凡夫(ぼんぶ)

仏教の理解が乏しく、修行実践もおぼつかない、凡庸で愚かな人のこと。特に浄土の教えにおいては、自らの為した悪業によって生死輪廻から抜け出せない存在を指し、凡夫とはこの娑婆世界に生きる私たち自身のことであると理解しています。

 

*千里(ちさと)

1里は現在の約3.9キロの相当します。

文明開化の時代に新しい度量衡が制定されるまで一般的だった距離の単位で、昔の人が1時間かけて歩ける距離に由来すると言われています。

和尚のひとりごとNo205「声はげまし もう一歩」

今年は東京オリンピックが開催される予定でしたが、新型コロナウイルスの影響により来年に延期という事になってしまいました。オリンピック精神とは、「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍など様々な違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でより良い世界の実現に貢献する事」と提唱されています。近年では「スポーツ」と「文化」に「環境」が加わり、オリンピックを通して世界中の人々が地球環境について考える機会にもなっているようです。2020gogatu

 競技中には選手同士が声を掛け合い、チームプレーを上手く進め、お互いの闘争心を鼓舞し合い、最後まで全力を尽くします。競技者のみならず観戦している場合でも、応援に力が入り、選手に声を掛けたくなるものです。例えばマラソンでは沿道で多くの人達がランナーに向かって熱い声援を送ります。励ましの声を聞いた選手達は、ゴールする迄とても勇気づけられると言います。団体競技でも、観客からの声援や選手同士の声掛けによって試合そのものの雰囲気を盛り上げ、チームとしてのモチベーションを高める事になります。

 相手に掛ける言葉は非常に重要です。同時に言葉はとても繊細なものです。掛けた言葉によって相手を喜ばせたり励ます事も出来れば、傷つけてしまう場合もあります。特に子供やお年寄り、病気になった時に掛ける言葉は相手に大きな影響を与える場合が多いです。子供には良いところを見つけては褒めてあげるという具体的な言葉が良いようです。褒められて育てられると「自分は生きる価値のある存在なんだ」と自信を持ち、困難な壁にぶつかっても自分を信じてチャレンジ出来る精神力が養われるそうです。ですから褒めてあげる事が、子供の成長にはとても重要なのです。お年寄りや介護される立場の人、或いは病気の時に掛ける言葉というのも大事です。言葉を通して励ませるだけでなく、お互いの信頼関係も築いていくからです。相手に寄り添い思いやる、その気持ちが言葉となり相手を勇気づけ、信頼感を生んでいきます。

 浄土宗のお念仏は口称(くしょう)念仏です。口に南無阿弥陀佛と称える事を重んじます。法然上人は声に出して、我が耳に聞こえる程のお念仏を高声(こうしょう)の念仏と説かれました。お念仏を称える事によって、我が身ただ一人ではなく、いつも仏様が見守ってくださっていると心励まされる気持ちになります。一声一声に仏様が応えてくださり、我々をお護りくださっているのです。ウイルスの影響で過ごし難い日々が続きますが、早く平穏無事な日がやってくる事を願い、「もう一歩」頑張る気持ちで日々共々にお念仏申して過ごして参りましょう。

 

和尚のひとりごとNo189「咲いて散ってまた咲く準備」

 

散る桜 残る桜も 散る桜

 

 2020sigatuこの歌は、江戸時代に活躍された良寛上人という方が詠まれた辞世の句<死に臨んで詠まれた歌>です。今は、たとえどんなに綺麗に咲いている桜であったとしても、いつかは散ってしまうという意味です。それと同じ様に、我々人間もどんなに健康で元気に過ごしていても、いずれ命尽きる時がきます。その事をしっかりと、我がごととして受け止めておきましょうという事です。

 「良馬(りょうば)は鞭影(べんえい)に驚く」という言葉があります。「良馬」、良い馬と言うのは「鞭影」、鞭(むち)の影を見ただけで走り出すと言われます。鞭で叩かれて走る馬は普通の馬です。鞭で叩かれても走らない馬は「駄馬(だば)」と言われます。これを人に喩えて、他所(よそ)に吹いた無常の風を見て、自らの無常を悟っていく事が仏教を知る事だと言われます。無常を我がごとであると知る事は、今日のこの今、生(せい)ある事の尊さを知る事でもあると言い換える事が出来るからです。

 浄土宗の二祖、聖光(しょうこう)上人は「死を忘れざれば八万の法門を、自然(じねん)に心得たるものにあるなり。」と説かれました。「死」という事を常に忘れず、我がごととして受け止めていくという事は、八万もあると言われる仏様の御教えを全て心得たものと同様だという意味です。そしてこの聖光上人は「念死念仏(ねんしねんぶつ)」と、いずれ死んでいかねばならない我が身であるという事を常に忘れず心に刻み、「南無阿弥陀佛」とお念仏を申して過ごしていかれたお方です。

 しかしこの世で命尽きても終わりではなく、その次に往く世界があります。それが西方極楽浄土です。そしてその国へ往くには、阿弥陀佛という仏様に救っていただかねばなりません。何故ならば自分の力では往く事が出来ないからです。その為の手段が「南無阿弥陀佛」とお念仏を申す事です。「南無阿弥陀佛」と唱えたその声を聞いて、阿弥陀様がお迎えに来てくださるのです。その阿弥陀様の御救いの力を、他力(たりき)と言います。我々の力ではどうする事も出来ない後の世は、全て仏様にお任せすれば良いのであります。西方極楽浄土に往けば、蓮の台(うてな)に生まれさて頂けます。その為に、今、力のある時に「南無阿弥陀佛」と唱え、共々に往生させていただく為の準備をして過ごして参りましょう。

 

和尚のひとりごとNo186「心は同じ花のうてなぞ」

 

 「シャボン玉」という童謡があります。子供の頃に聞いたり、歌った事のある方も多いと思います。

  シャボン玉飛んだ  屋根まで飛んだ

  屋根まで飛んで   こわれて消えた

  シャボン玉消えた  飛ばずに消えた

  生まれてすぐに   こわれて消えた

  かぜかぜ吹くな   シャボン玉飛ばそ

 

 野口雨情(のぐち うじょう)さんの書かれた詩です。野口雨情さんは宗教的な意味合いの深い詩を沢山創られております。この詩でシャボン玉は儚い命を表しています。日本でお念仏の御教えを弘めてくださった法然上人は、我々の儚い命を「朝露(あさつゆ)の如し」と示されました。葉っぱの上の露は、いつ落ちて消えるか判りません。たとえ葉の上に残っていたとしても、陽に照らされれば、いずれ消えていきます。我々の命というものは朝露の様に、或いはシャボン玉の様に儚い命であります。屋根まで飛んだシャボン玉はいくつあるでしょうか。飛ばずに消えたシャボン玉もあるでしょう。色々な御縁を頂戴して皆、一生懸命生きています。どんな一生を送ったとしても、「屋根まで飛んでこわれて消えた」の詩と同様に、いずれ亡くなっていかねばならないのがこの世での命です。

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 野口雨情さんの子供さんは生まれてすぐに亡くなったそうです。或る日、雨情さんの近くの子供達がシャボン玉を飛ばして遊んでいました。それを見た雨情さんは、「もし我が子が生きておったなら、今頃はこの子供達と一緒に楽しく遊んでいただろうな。」その様に亡き幼子(おさなご)に想いを馳せて書いた詩だと言われています。大正時代のお話ですから、その当時は幼くして亡くなる子供が多くいました。今の様に医療技術も、食事の面でも恵まれていなかった時代です。雨情さんはその後、何人かのお子様を授かっておられますが、幼くして亡くした子供の事はいつまでも忘れられずに、この「シャボン玉」の詩に託されたと言われています。「かぜかぜ吹くなシャボン玉飛ばそ」は、「諸行無常の風よ、吹いてくれるな」そんな思いで、親の切なる願いで書かれたのだと思われます。諸行無常の世の中ですから、たとえ屋根まで飛んでも消えていかねばなりません。しかし「必ず御浄土に参らせていただく。間違いなく阿弥陀様に迎えとっていただいて、西方極楽浄土に往生させていただくのだ。」と、口に南無阿弥陀佛とお念仏を唱えるのが浄土宗のお念仏です。この世で命尽きても、後の世は御浄土の蓮の台(うてな)に生まれさせていただける。そして縁ある方とまた再会出来ると思い定めて、日々共々にお念仏申して過ごして参りましょう。