伝道掲示板

和尚のひとりごと「伝道掲示板232」

 警覚偈

(意味)
大衆方に敬意を表して申し上げる。
生死は仏教の一大事、時間は留まることなく速やかに過ぎ去っていく
各人はよく目覚めて修行に励み、決して怠惰・無為に過ごすことのないように

修行僧の朝は役僧によって打ち鳴らされる版木(ばんぎ)の音で始まる。その際に高声で唱えられる偈文。

生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)
各宜覚醒(かくぎかくせい)
慎勿放逸(しんもつほういつ)
禅宗の文献『六祖壇経(ろくそだんきょう)』の中に六祖慧能禅師の言葉としても伝えられている。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板231」

別回向⑩

(意味)
天災地変(天変地異や災害)により
あるいは国家などの犠牲により、また不慮の事態で亡くなった 三界の全ての精霊に
仏法に結縁した者たちも、その縁に恵まれなかった者どもも
あらゆる世界に到りくまなく、平等の利益がもたらされるように

殉難とは自分を超えた存在の為に命を落とすこと。
横死は思いがけない、予想外の事故や病気などで命を落とすこと。
三界は欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の事で、有情が生まれ変わり(輪廻転生)を繰り返す三種の生存境界を指し、五趣(異説では六趣)つまり六道輪廻に同じ。これは迷いの境界であり、浄土教においてはそこを厭い離れて出離し、浄土へ往生する事が目指される(厭離穢土欣求往生 おんりえどごんぐじょうど)。
法界は全宇宙の根源、あるいは真如(真実の姿)のことだが、ここでは全世界・全宇宙という意味。

別回向のお勤めの最後に読み上げることが多い回向文である。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板230」

別回向⑨

(意味)
戦争で命を断ち、病に倒れた全ての精霊
あるいは戦災により亡くなった者たちが
自分を怨んだ者も、反対に味方となった者も、皆平等に大いなる悟りの智慧を得られるように

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板229」

別回向⑧

(書き下し文)
新亡中陰の諸精霊等の、神は浄域に超え、業は塵労を謝し、仏を見、法を聞きて速やかに無生に入らん

(意味)
新たに亡くなった者も、今中陰の期間にある者も、全ての亡者の魂がきよらかなる国土である西方浄土へ入り、(浄土往生の為の正しい)行いである(念仏)が、心を疲れさせる生来の煩悩を退け、仏の御前にてその教えを直々に聞くことで、速やかに消滅変化を離れた真実の世界にたどり着くように

四十九日間続く中陰は有情の生存の流れを四段階(四有 しう)に分けた中で、母胎などに受精する瞬間(生有 しょうう)、以降臨終の間際まで(本有 ほんぬ)、そして死の瞬間(死有 しう)に続く次の生有の直前までの期間をいう。「中陰」は死有と生有との中間の五蘊(ごうん)という意味で、「五蘊」は身心を構成する五つの集まり、つまり生存そのものの意である。「中陰」は旧訳であり、玄奘以後の新訳では「中有 ちゅうう」と呼んでいる。
この生存形態を認めるか否か、古来アビダルマ時代より意見は二分され、さらにその期間についても諸説あったと伝えられているが、現在の中国・台湾やその流れをくむ日本のみならず、チベット系の仏教においても四十九日は重視され、次の生存形態が決定するあるいは解脱や浄土への往生が決まる大切な期間であると言われている。
中陰中に香を絶やさない習慣は、欲界の生存の中有は香を食すと言われる為で「食香」とも呼んでいる。

神は心・ 精神のこと。
超は、中間過程をとびこえて完全なさとりに入ること、浄土への速やかなる往生とかの地での成仏を願ったものか?
浄域は清らかな地域であり、西方極楽浄土のこと。
謝は、退ける・縁を切ること。
塵労は、心をわずらわせ、疲弊させる煩悩のこと。塵(ちり)とは六塵(ろくじん)と呼ばれる色(しき)・声(しょう)・香(こう・味(み)・触(そく)・法(ほう)を指し、これら感受の対象と六根(ろっこん)と呼ばれる感覚器官が触れることにより煩悩が起きるとされる。また心が本来は清浄でありそれに付着して汚すものが煩悩であるという意味で客塵煩悩(きゃくじんぼんのう)と表現することもある。
無生は生ずることがない、消滅変化がない無分別の境地、すなわち悟り・涅槃のこと。有為(因縁によるもの)に対する無為(因果を離れた不生不滅のあり様)に同じ。伝統的に無為と涅槃は同義であると考える。浄土を無為涅槃界と捉える時、往生することがこの無生の体得につながる為、往生を「無生の生」と呼んでいる。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板228」

別回向⑦

(書き下し文)
当寺開基以来諸檀越 日牌月牌 諸精霊等の菩提を増進せん

(意味)
当寺が開基されて以来、寺や僧侶を支えてきた諸々の檀越
さらには日々あるいは毎月のように位牌を祀り供養している諸霊たち
その他諸々の先だった精霊等の悟りがますます増大し進展するように


開基は開山と対に用いられる。
開山が寺院を創建した上人を指すのに対して、開基は寺院創建時の世俗の経済的支持者、即ち創建時の中心的檀越をそう呼ぶ。
檀越はdānapati(ダーナパティ)の音写語で「恵む者」の意。檀家・檀徒・檀那などと同義で用いられる際は、寺への寄進や僧の衣食住の援助(布施)をする事で寺院を支える立場の人のこと。
毎日のように位牌を祀って供養することを日牌、毎月供養することを月牌という。
精霊とは衆生の魂、ここでは亡くなった者の霊のこと。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板227」

別回向⑥

(書き下し文)
寺門清寧し 道縁具足し 諸の障擬無く 浄業は増長せん

(意味)
修行の場である寺が静寂と安寧につつまれきよらかであり
(そこで)仏道の縁を結ぶことが出来て
(仏道を妨げる)諸々の障害も見たらず
(浄土往生の為の)きよらかな行い(である念仏)が大いに伸長しますように

清寧は清く静かで安らかに治まっていること
道縁は仏道の因縁。
浄業は浄らかな行い。浄土往生の行因である世(世俗の善根)・戒(持戒の善根)・行(出世間の善根)の三福、または浄土往生の業である念仏のこと。
障礙(障碍)は仏道修行もしくは悟りの障害となるものをそう呼ぶ。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板226」

別回向⑤

(書き下し文)
当寺開山上人 中興上人 歴代諸上人
法類法眷先亡諸上人等の普賢行願究竟円満ならん

(現代語訳)
当寺を開山した御上人、また中興した御上人、および歴代の諸上人
法類、法眷、先亡諸上人等が起こした衆生救済の為の普く勝れた菩薩行の誓いがゆるぎなく最上のもので完成されていますように。

普賢行願が究竟円満でありますように

法類は寺院または住職と法縁関係にある教師の呼称で、法脈の継承に関連する法縁関係をそのように呼ぶ。
法眷(法における眷属)は法(教え)を同じくする仲間、あるいは同じ師に学んだ仲間のこと。
先亡諸上人は既に故人となった諸々の上人(浄土宗教師)のこと。

普賢行願は広く大乗仏教の菩薩思想を象徴的に表す語句の一つで、『華厳経』入法界品に頻出する。原語はいくつか比定されるが、その中の一つである”Samanta-bhadra-caryā-praṇidhāna(サマンタ・バードラー・チャリヤー・プラニダーナ)”の意味は「普あまねく賢すぐれた実践の誓い」とのことである。
『無量寿経』第二二願においては、あえて仏となるのも間近となる一生補処(いっしょうふしょ)に赴かない立場を普賢行と呼んでいる。「一生補処」は悟りを目指す菩薩行の中で最高位で、今生の一回の生だけ迷いの生存に縛られている者という意味で、次の生において仏となる事が定まっているあり方。あえてこの立場の手前で留まるのは、衆生を救済せんが為である。この願を浄土宗では「一生補処願(いっしょうふしょがん)」と呼び、能化(出家に同じ、僧侶のこと)に対する別回向で唱えられている。

究竟円満は、絶対で最上かつ完成されているさまである。 

 

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板225」

別回向④

(書き下し文)
高祖光明善導大師 宗祖円光明照和順大師 二祖大紹正宗国師 三祖記主禅師 三国伝灯諸大列祖等の慈恩に酬い上(たてまつ)らん

(原文和訳)
高祖光明善導大師、宗祖円光明照和順大師、二祖大紹正宗国師、三祖記主禅師、及びインド・中国・日本の仏法が伝えられた三国の偉大なる祖師方の慈恩にむくい奉ります。

高祖光明善導大師は、唐代の長安にあって浄土の教えを広め、法然上人及び我が国の浄土思想に多大なる影響を与えた。浄土五祖の第三。

宗祖円光明照和順大師は浄土宗の開祖法然房源空(ほうねんぼうげんくう)上人のこと。諡(おくりな)として円光(えんこう)・東漸(とうぜん)・慧成(えじょう)・弘覚(こうかく)・慈教(じきょう)・明照(めいしょう)・和順(わじゅん)・法爾(ほうに)の八つの大師号があり、これらを全て読み上げることもある。

以上、善導大師と法然上人を「浄土二祖」と呼ぶ。
また「浄土五祖」」とは、法然上人が『選択集』において浄土宗の師資相承血脈を明らかにする中で挙げられた人師。中国において弥陀の教えを宣揚した曇鸞(どんらん)大師・道綽(どうしゃく)禅師・善導大師・懐感(えかん)禅師・少康(しょうこう)の五祖の総称。またそれに加えて中国・日本の浄土教における祖師として菩提流支(ぼだいるし)三蔵、さらにはインドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩や天親(てんじん、世親 せしん)菩薩を挙げることもある。法然上人は道綽・善導流の師資相承の血脈譜の筆頭に流支三蔵を挙げており、龍樹・天親も浄土教の趣意を明かした私たちの教えにとって大切な論師である。

浄土五祖像(京都・二尊院蔵)

二祖大紹正宗国師は浄土宗の二祖。諱(いみな)は弁長、字(あざな)は弁阿、号は聖光房。鎮西上人、筑紫上人、善導寺上人。大紹正宗国師は滅後600年の文政10年(1827年)に仁孝天皇より贈られた諡号となる。現在の浄土宗につながる鎮西義の祖とされる。

三祖記主禅師は浄土宗三祖良忠(りょうちゅう)上人のこと。然阿弥陀仏略して然阿(ねんな)とも。主に東国に布教を行い、鎌倉光明寺を創建、西山義を始めとする異流に対して、二祖三代の相伝により鎮西義を確立した。その門下は六流をなしたという。

印度(天竺)、中国(震旦 しんたん)そして我が国日本の三国という表現は、インドより大陸のオアシス地帯を経て伝わった北伝の仏教を指している古来よりの表現。実際には日本仏教が朝鮮半島などの仏教の恩恵に与ること大であったことも忘れるべきではない。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板224」

日常勤行-3

 『無量寿経』下「五悪段」からの引用

(意味)
天下はすべてが穏やかであり、太陽や月は清らかで汚れなく、風や雨も時に相応しく、天災や疫病も起こりません。国土は豊かで、人々は安らかに過ごし、武器を用いるような争いもありません。〔人々は〕徳のあることが尊敬され、慈しみの心をおこして、礼儀と謙譲とを実践することに努め励むのであります。
                                                                                                                                              『浄土宗日常勤行式の総合的研究』より

仏ある国土を讃え、そのような世界の実現を祈念する内容であり、祖山声明の伽陀としても唱えられる。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板223」

日常勤行-1

(意味)
衆生済度のための大いなる哀れみに基づく誓願を立てた願い主である阿弥陀仏
私たちに浄土への往生を勧め励まして下さっている釈迦牟尼仏
念仏往生の真実を証明する東西南北上下の六方におわすガンジス河の砂粒にも譬えられるほど数多くの諸仏観音・勢至などの諸々の偉大なる菩薩
出自は異なれど極楽世界に入って皆同様に清らかとなっている方々
そして全ての仏法僧という宝の持つ広大な慈悲のご恩にむくいたてまつります

浄土宗の日常勤行で唱えられる別回向には特別な回向という意味があります。回向とは方向を転じて向かう事、つまり善い行いの功徳を他者に振り向ける行いを指します。別回向では御仏や祖師方のご恩に対して、あるいは先立たれた有縁の人々の菩提の増進(悟りへの道のりが迅速に進むこと)を願って回向が行われます。
そして私たちが勤める善い行いとは、外ならぬお念仏の事であります。法然上人も仰るようにお念仏には無上の功徳が備わり、その大いなる功徳を回向しているのです。
『地蔵菩薩本願経』によれば、追善供養による功徳の七分の一は祖師方やご先祖様が、残りの七分の六を我が身に戴けるそうです。
合掌