偈文
和尚のひとりごと「伝道掲示板237」
(書き下し文)
十方証誠諸仏よ、六神通をもって私を照鑑したまえ。今二尊の教えに乗じて、広く浄土門を開かん
(意味)
十方のあらゆる方角におわします仏たちよ
六種の神通力をもって私をご覧ください
今わたくしは釈迦仏・弥陀仏の尊ぶべき仏の示した教えに従って
ここに広く浄土の御教えを開示しようと思います
善導大師『観経疏』玄義分より
善導大師が『観経』に明かされている凡夫往生の教えを説き示さんとするにあたり記した一文。
唐朝三代皇帝高宗の発願で建造された中国仏教史上に名高い龍門石窟の検校僧に抜擢された善導大師
その龍門石窟からはこの一節を含む十四行偈(『観経疏』の序文)の刻文が発見されているという。
合掌
和尚のひとりごと「伝道掲示板234」
敬白大衆 生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸
うやまってだいしゅうにもうす
しょうじじだいむじょうじんそくおのおのよろしくせいかくすべし
つつしんでほういつなることなかれ
大衆に生死が一大事である。
それにも関わらずこの世が無常であり一刻も猶予なき事を知らせ、
各々がよく目を覚まして、放逸なる生活を戒めようとする文。
早朝、大衆の覚醒を促すのはこの偈文とそれに続いて打ち鳴らされる版木(ばんぎ)の音である。
禅宗では六祖慧能禅師の残した言葉として伝えられている。
生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)
各宜覚醒(かくぎかくせい)
慎勿放逸(しんもつほういつ)
〔六祖壇経〕
和尚のひとりごと「伝道掲示板233」
(意味)
願わくはこの鐘の音が全世界に響きわたり、鉄囲山に取り囲まれた迷いの世界の全ての衆生がそれを耳にして、三悪道の苦しみから離れて、極楽浄土に生を受け、かの地で悟りの境地へと到達できますように
鉄囲とは鉄囲山(てっちせん)のこと。『倶舎論』によれば我々の住む世界の中心にそびえたつ須弥山(しゅみせん)を取り囲むようにして九山八海(くせんはっかい 九つの山脈と八つの大海)があり、その中で最も外側にある鉄の山のこと。鉄囲山に囲まれた世界という意味で、我々の住む世界を表している。
幽暗は煩悩に曇らされ迷いの暗中にある凡夫のあり様を示す。
三途は地獄道、餓鬼道、畜生道と呼ばれる三つの悪しき境涯(三悪道)を指す。
安養は西方極楽浄土のこと。「極楽」の異訳として康僧鎧訳『無量寿経』には「安養仏」や「安養国」という表現がある。
鐘(お寺の梵鐘)を打つ前に十方世界の衆生に法要の始まりを告げること、あるいは日常における時刻の合図として用いられ、この偈文は「鐘を打つ時唱念すべき文」(『諸回向宝鑑』)とされている。
合掌
和尚のひとりごと「伝道掲示板231」
(意味)
天災地変(天変地異や災害)により
あるいは国家などの犠牲により、また不慮の事態で亡くなった 三界の全ての精霊に
仏法に結縁した者たちも、その縁に恵まれなかった者どもも
あらゆる世界に到りくまなく、平等の利益がもたらされるように
殉難とは自分を超えた存在の為に命を落とすこと。
横死は思いがけない、予想外の事故や病気などで命を落とすこと。
三界は欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の事で、有情が生まれ変わり(輪廻転生)を繰り返す三種の生存境界を指し、五趣(異説では六趣)つまり六道輪廻に同じ。これは迷いの境界であり、浄土教においてはそこを厭い離れて出離し、浄土へ往生する事が目指される(厭離穢土欣求往生 おんりえどごんぐじょうど)。
法界は全宇宙の根源、あるいは真如(真実の姿)のことだが、ここでは全世界・全宇宙という意味。
別回向のお勤めの最後に読み上げることが多い回向文である。
合掌
和尚のひとりごと「伝道掲示板229」
(書き下し文)
新亡中陰の諸精霊等の、神は浄域に超え、業は塵労を謝し、仏を見、法を聞きて速やかに無生に入らん
(意味)
新たに亡くなった者も、今中陰の期間にある者も、全ての亡者の魂がきよらかなる国土である西方浄土へ入り、(浄土往生の為の正しい)行いである(念仏)が、心を疲れさせる生来の煩悩を退け、仏の御前にてその教えを直々に聞くことで、速やかに消滅変化を離れた真実の世界にたどり着くように
四十九日間続く中陰は有情の生存の流れを四段階(四有 しう)に分けた中で、母胎などに受精する瞬間(生有 しょうう)、以降臨終の間際まで(本有 ほんぬ)、そして死の瞬間(死有 しう)に続く次の生有の直前までの期間をいう。「中陰」は死有と生有との中間の五蘊(ごうん)という意味で、「五蘊」は身心を構成する五つの集まり、つまり生存そのものの意である。「中陰」は旧訳であり、玄奘以後の新訳では「中有 ちゅうう」と呼んでいる。
この生存形態を認めるか否か、古来アビダルマ時代より意見は二分され、さらにその期間についても諸説あったと伝えられているが、現在の中国・台湾やその流れをくむ日本のみならず、チベット系の仏教においても四十九日は重視され、次の生存形態が決定するあるいは解脱や浄土への往生が決まる大切な期間であると言われている。
中陰中に香を絶やさない習慣は、欲界の生存の中有は香を食すと言われる為で「食香」とも呼んでいる。
神は心・ 精神のこと。
超は、中間過程をとびこえて完全なさとりに入ること、浄土への速やかなる往生とかの地での成仏を願ったものか?
浄域は清らかな地域であり、西方極楽浄土のこと。
謝は、退ける・縁を切ること。
塵労は、心をわずらわせ、疲弊させる煩悩のこと。塵(ちり)とは六塵(ろくじん)と呼ばれる色(しき)・声(しょう)・香(こう・味(み)・触(そく)・法(ほう)を指し、これら感受の対象と六根(ろっこん)と呼ばれる感覚器官が触れることにより煩悩が起きるとされる。また心が本来は清浄でありそれに付着して汚すものが煩悩であるという意味で客塵煩悩(きゃくじんぼんのう)と表現することもある。
無生は生ずることがない、消滅変化がない無分別の境地、すなわち悟り・涅槃のこと。有為(因縁によるもの)に対する無為(因果を離れた不生不滅のあり様)に同じ。伝統的に無為と涅槃は同義であると考える。浄土を無為涅槃界と捉える時、往生することがこの無生の体得につながる為、往生を「無生の生」と呼んでいる。
合掌