本山
和尚のひとりごとNo172「善光寺尼公上人」
善光寺参りで多くの参詣者を集める信州(長野)善光寺については何度かご紹介して致しましたが、浄土宗の大本山の中でも住職が代々皇室にゆかりのある女性によって受け継がれてきたという点で、善光寺大本願は際立った存在感を放ちます。『善光寺縁起』によれば、ご利益あらたかな御本尊 一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)は、欽明天皇一三年(五五二)に百済聖明王から献じられた日本最古の霊仏とされています。欽明天皇の御世といれば、仏教にも非常に縁の深い聖徳太子が活躍された時代でもあります。
さて善光寺の開山は皇極(こうぎょく)天皇(のちの斉明天皇)名代として遣わされた蘇我馬子の女(むすめ)、善阿尊光(ぜんなそんこう)であったと言われ、爾来、皇族・公家・大名家の家柄より出家した尼公(にこう)上人が住職を勤められました。
やがて時代が下ると善光寺大本願の住職は本願上人(ほんがんしょうにん)と呼ばれるようになります。
江戸時代には女人信仰の寺として庶民にまで信仰の裾野を広げ、「遠くとも 一度は参れ 善光寺」、つまり何があっても一生に一度は参るべき霊地として人気を集めました。女人禁制のしきたりも根強かった当時、女性の極楽への往生を謳った善光寺は誠に希有な存在でありましょう。
現在の浄土宗大本山善光寺大本願は、第121世法主鷹司誓栄(たかつかさせいえい)上人が法燈を守られ、かつては文明開化の世において廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中、善光寺を寺院として護持された中興の祖第117世誓圓(せいえん)尼公上人のような方もおられました。
現在では年間の参拝者数が700万人を超すという信州を代表する観光名所でもあります。是非、皆さまもお参りください。合掌
和尚のひとりごとNo154「大本山増上寺と日光東照宮 」
浄土宗大本山の一つである増上寺の歴史をひも解くと、もとは弘法大師空海の弟子であった宗叡(しゅうえい)が建立した真言宗の古刹光明寺(こさつ こうみょうじ)を、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人が念仏道場にしたことに始まります。爾来、室町時代の開山から戦国時代さらには江戸時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展してきました。
そうした中、浄土宗にとりましても大きな出来事が起きます。東国に江戸幕府を開こうとしていた徳川家康の帰依を受けるようになったことです。それは家康公が関東の地を治めるようになってから間もなくのこと。やがて増上寺は徳川家の菩提寺(のちに勅願所ちょくがんしょ)となり、1598年(慶長三年)には現在の地(芝)に移転しました。のちには関東十八檀林(僧侶の学問所・養成所)の筆頭として、常時三千人を越す僧侶が学ぶ道場となりました。
そんな増上寺ですが、実は江戸の都市設計上、ある重要な役割を担わされていいたと言われています。当寺の江戸は鎌倉や小田原に比べるとまだまだ未開発の地、港沿いの湿地帯の背後に武蔵野の原野が広がっているような土地柄だったと言われます。そんな中での新たな都市計画です。江戸の街づくりの基本理念は徳川家のブレーン天海僧正によるものです。天海は江戸を京の都、平安京にみたて、鬼門にあたる北東の方角に東叡山寛永寺(東の比叡山です)を配し自ら住職として守り、そこから江戸本丸(江戸城)を挟んで一直線で結ばれる先に増上寺を配しました。つまり増上寺は西南の裏鬼門に位置します。鬼門・裏鬼門は鬼(悪しきもの)が侵入する入り口だというのが古来よりの言い慣わしであります。両寺院が江戸という小さな都市国家を守護する役目を担っていた訳ですね。やがて両寺院には家康公を祀る東照宮が勧請されました。さらにそのラインを反対に江戸の北方面に伸ばしてくと日光東照宮に行きつくともいわれます。地図を眺めて線を引いてみると確かに
日光東照宮は、東照大権現(江戸城の守護神)として家康公を祀る場所、また北という方角には北極星が鎮座し、その北に位置する東照宮を拝することは、北極星すなわち天帝を拝することでもあると言われました。家康公を天帝と同一視しようとしたのではないでしょうか? 残念ながら増上寺の大塔伽藍に往時の面影を伝えるものは少ないですが、日光東照宮は世界遺産にも登録されています。
都市や町は歴史を持ち、それは人の記憶と似ています。また様々な意図や思惑が込められていることもあるようです。それを探ることも興味深いですね。
合掌
和尚のひとりごと「浄土宗総大本山巡る旅第一回」
浄土宗大本山 金戒光明寺、百万遍知恩寺 団参日帰り心の旅
平成30年5月8日 曇り空のなか京都へ出発しました。
午前中に金戒光明寺さんに参拝、堂内を案内していただいた上人(お坊さん)のお話がおもしろく、「虎の間」では三匹の虎が描かれているふすま絵を開けると虎が二匹になるというお話も笑い声につつまれながら聞きました。
写真撮影が禁止だったのでお見せできないことが残念ですが、今回は貴重なお像も拝見させて頂きました。法然上人の涅槃像です。厨子(ずし)に入ったお像で普段は公開されていないそうです。私も初めて拝見しました。
金戒光明寺さんには、法然上人の手形(一枚起請文の原本には法然上人の手形が押されています)を写したものがあり、手をあわさせてもらい、法然上人の手が小さかったことに驚きました。案内の上人(お坊さん)のお話では、手形を押したときは、亡くなる少し前で、力強く押せなかったからからとのことでした。
昼食のあとに、百万遍知恩寺さんに参拝、知恩寺さんといえば、百万遍大念珠繰りです。
大殿(だいでん)にて百万遍大念珠の数珠繰りをしました。
大殿とは、法然上人をお祀りしているお堂で、御影堂(みえいどう)とも呼びます。
お話して頂いた知恩寺さんの上人(お坊さん)によると、百万遍の法然上人のお像が若く一番ハンサムな姿をされていますとのことでした。確かに、凛々しいお姿をされていました。
参加された檀信徒の皆さまもよい一日だったと喜んでいただけました。
10月に予定している「鎌倉の大本山光明寺と大本山増上寺 団参一泊二日の旅」に皆さまの参加を玉圓寺一同お待ちしています。
和尚のひとりごとNo117「本山 蓮華寺」
浄土宗には、格別なお寺として、総本山知恩院、大本山が七ヶ寺あります。その他に特別なお寺として、本山が一ヶ寺あります。
その本山とは、滋賀県米原市にあります「蓮華寺」です。
蓮華寺の歴史は古く、聖徳太子の発願により、615年に建てられ、当時は法隆寺と称していましたが、1276年に落雷により焼失してしまいました。
1284年に一向上人(法然上人の曾孫弟子)が、時の領主土居三郎元頼(どいさぶろうもとより)の支援によって再興し、「八葉山蓮華寺」と改称されました。
歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅願寺院(ちょくがんじいん)として許勅(きょちょく)を賜(たまわ)り、寺紋として菊の紋を使うことを許されています。
創建当時は、南都六宗のお寺で、ご本尊さまはお釈迦さまをお祀りしていましたが、一向上人が再興された時に、阿弥陀さまをご本尊さまとしてお迎えされ現在は、お釈迦さま 阿弥陀さまの二尊がご本尊さまです。
時宗一向派大本山の念仏道場として隆盛を極めましたが、後に、浄土宗に帰属して浄土宗本山として今に至ります。
境内には、「忠太郎地蔵尊」がお祀りされていて、こちらのお地蔵さまは、長谷川伸 作「瞼の母」の主人公 番場の忠太郎にちなんで1958年に建立されたものです。
春には満開のミツバツツジ、夏は涼しさ感じる紫陽花 秋は赤く染まる紅葉 冬には降り積もった雪景色と四季折々の景色が楽しむことができます、一度とは言わず何度でも参詣していただきたいお寺でございます。
一向上人については次回ご紹介します。
信州善光寺のご案内です。
善光寺は仏教の諸宗派(浄土宗などの~宗といわれるもの)に属さない独立した寺院です。
前回の和尚のひとりごとNo.100でも触れましたが、浄土宗と天台宗の寺院が善光寺のお世話をさせていただいています。その寺院のなかで、浄土宗の善光寺大本願と天台宗の善光寺大勧進の住職が、善光寺の住職を兼ねています。
善光寺のご本尊は、一光三尊阿弥陀如来様です。
ご本尊の一光三尊阿弥陀如来様の仏像は日本最古の仏像といわれています。
「善光寺縁起」によれば、欽明天皇13年(552年)仏教の伝来ともに、日本に伝えられたといわれています。
仏教の受け入れについて、賛成派と反対派の論争の最中に、反対派の手によって、難波の堀江に打ち捨てられました。
その後、信濃の国司の従者(長野県の知事のお付きの人)として都に来ていた本田善光によって信濃の国(長野県)にお連れされたのです。
善光が、都から信濃へ帰る途中に、難波の堀の近くを通った時に、「善光~善光~」と呼ぶ声が聞こえ、あたりを見回すと、水の中から金色(こんじき)に光る仏像が飛び出してきました。その仏像が、一光三尊阿弥陀如来様の仏像だったのです。
阿弥陀様は、善光に一緒に信濃に連れて行くようにとおっしゃったそうです。
善光は、阿弥陀様のおっしゃるとおりに、信濃の国にお連れし、はじめは、自宅(長野県飯田市)でお祀りしていましたが、のち現在の地(長野県長野市)に移ってお堂を建て、お祀りされたそうです。
皇極天皇3年(644年)には、皇極天皇の勅願によって伽藍が造営されました。この時、本田善光の名をとって、「善光寺」と名付けられたと伝えられています。
「牛にひかれて善光寺参り」「一生に一度は善光寺参り」など、善光寺参りに関する言葉ができるほど、一般の人にとっては、大切な行事でした。
この大切な善光寺参りへ、ぜひ皆様も経験していただきたいとおもいます。
「牛にひかれて善光寺詣り」とことわざにもある長野県の善光寺は、浄土宗の大本山と思われていますが、実は、善光寺は大本山ではありません。
善光寺の中に「善光寺大本願」というお寺があります。こちらのお寺が、浄土宗の大本山になります。
善光寺は、「~宗」というような宗派はなく、全ての仏教の宗派のお寺です。
善光寺のお世話をさせていただいているのが、浄土宗と天台宗です。
善光寺の中には、たくさんのお寺があります。善光寺のお世話、参拝者のための宿坊となります。
それらのお寺は、浄土宗と天台宗のお寺になります。
それぞれの宗派のお寺のまとめ役のお寺が、浄土宗が「善光寺大本願」 天台宗が「善光寺大勧進」です。
そして、「善光寺大本願」「善光寺大勧進」の住職が、善光寺の住職を兼ねています。
善光寺大本願の御詠歌は
ふみまよう こころの闇をてらしませ わしのみ山にのぼる月影
善光寺大本願は尼僧寺院で、歴代の住職は、尼公上人です。
また、尼公上人は、皇族の方、堂上貴族からお迎えされてきました。
善光寺大本願では、毎早朝、上人がお勤めのために徒歩で本堂へ向かわれます。
その往復の道すじに信徒の皆様が膝(ひざ)をついて参列し、尼公上人にお念珠を頭に頂く(なでていただく)「御念珠頂戴の儀」が行われています。
機会があれば、ぜひ参列していただきたいと思います。
次回は善光寺をご紹介します。
大本山 鎌倉の光明寺の紹介です。
正しいお名前は、天照山蓮華院光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)といいます。
創立は、鎌倉時代の寛元元年(1243年)と伝えられています。
寺を開かれたのは、浄土宗第三祖 良忠上人です。
「光明寺」というお寺は、多くございます。(大本山 金戒光明寺など)区別するために、「鎌倉の光明寺」と呼ばれています。
鎌倉時代に建てられたからではなく、神奈川県鎌倉市の地に建てられているから、「鎌倉の光明寺」です。
御詠歌は、
出ずる(いずる)日も入る(いる)日もともに
南無阿弥陀仏 仏の光うけぬ日ぞなき
「鎌倉の光明寺」は関東における念仏修行の根本道場として、後土御門天皇より、「関東総本山」の称号を下賜され、国の安寧と平和を祈る「勅願所」とされました。
現在、浄土宗で勤められている「十夜法要」の発祥のお寺でもございます。
※江戸時代になりますと、「関東十八檀林」の筆頭とされ、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場として、隆盛しました。
「関東十八檀林」 檀林とは僧侶の修行道場と学問の研究所のことです。十八檀林とは、江戸時代に幕府より正式に認められた浄土宗僧侶の修行道場と学問所がある十八のお寺のことです。
浄土宗の大本山善導寺をご紹介します。
善導寺は、正しくは、井上山光明院善導寺(せいじょうざんこうみょういんぜんどうじ)と申します。
九州は福岡県久留米市にございます。
善導寺は九州の地の浄土宗、念仏の根本道場として、幾度かの盛衰を経て今日(こんにち)にいたります。
善導寺は浄土宗の第二祖 聖光上人(しょうこうしょうにん)が開かれたお寺です。
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