No969「お念仏を称え続ける」
Q. 浄土真宗門徒は極楽(彼らはお浄土と呼んでいる)へ必ず行けるというが
浄土宗は必ずしも約束されていないんですよね
※浄土真宗の場合閻魔大王の審判がないと聞きました
お浄土と呼び、極楽と呼んでも、その意味するところは異なりません。阿弥陀さまが一切の衆生を救うために建立された西方の仏国土の事です。
浄土真宗の教えでは、極楽への往生は既に定まっている事と考えるとうかがったことがあります。またお念仏を称えることも積極的には勧められないそうです。それに対して浄土宗では、極楽往生を望み仏が示して下さったお念仏という実践を伴えば必ず往生が叶うのだと考えます。
それは私たちが最も大切にしている浄土三部経の中の『仏説無量寿経』の中にこのように書かれているからです。
「あらゆる世界の衆生が、真実のこころをもって深く信じて極楽への往生を願い、十遍南無阿弥陀仏と称えたにもかかわらず、往生しないということがないようにしたい」(浄土宗大辞典)より。
これはかつて修行時代の阿弥陀さま(法蔵という名のお坊さんでした)が、悟りを開いて仏となることを目指すにあたりたてた誓いの中で最も大切な第十八目の願の内容です。私たちは他ならぬ仏のこのお言葉を信受してお念仏に励むのです。
そして生涯にわたりお念仏を続けることには、もう一つ大事な意味があります。私たちは凡夫です。たとえ極楽への往生が決まっていると頭で理解していても、疑いの念が起こり、不安となり、ときには教えへの不信感さえも生まれるかも知れません。しかしたとえどんな時でもお念仏を続けていれば、極楽往生への確信は深まり、余計な思いは心より去って、往生に必要な心のまことさえも自ずと培われるのです。
※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。
No966「天国」
Q. 「天国へ行く」、との表現をしがちですが仏教でもつかってよいのですか
ご理解頂きたいのは、「天国」と「極楽」はその意味するところが違うという事です。
仏教が目ざすのは悟りを開くこと、そして極楽世界に行けば仏の導きのもと、悟りへと歩みを進めることができると考えます。私たちが志すのは、阿弥陀如来がおわします西方の極楽と呼ばれる仏国土に往生することです。キリスト教でそう呼んでいる「天国」は、神による最後の審判が下された結果、選ばれた人々がそこに迎えられ、永遠の生を手にすることができる世界です。
極楽と天国はこのように異なりますが、仏教で天の国(天界)と呼ぶときは、人間よりも少しだけ優れていて、比較的恵まれた生活を送れる神様たちの世界を指します。しかしこの天界に生まれても、必ず死を迎え、その次に人間などに生まれ変わるのは難しいとも言われています。あまりに恵まれ過ぎていて、大切なことを考える暇がないのかも知れませんね。
※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。
No963「地蔵十王経」
Q. 五七日目に閻魔大王の審判が下り、行き先が決定されるのですか?
※最近私は友人宅の五七日に参加した折、葬家の家族にそう伝えてみんなで閻魔大王に極楽往生の陳情を行いました。
A. 人は亡くなってから49日間の間に次の新たな生命を受けると考え
さて私たちになじみ深いお話では、閻魔大王(えんまだいおう)
まず最初の七日間(初七日 しょなのか)には、不動明王が生前の殺生の行いを調べます。
次の二七日(ふたなのか)には、
続く三七日(みなのか)には、
四七日(よなのか)には、
そして五七日(ごしちにち)には、閻魔大王(もしくは地蔵菩薩)
六七日(むなのか)には、
この考え方は仏教の中陰の考え方と中国の道教が習合したもので、
ただしこれらを経験して生還した人はおりませんし、
このような考え方が広く流布した背景には、
さて私たち浄土宗の教えでは、
※あくまでも「和尚のひとりごと」の見解です。